教育の意味

 日本の高度成長期には、日本人はやるべきことがよく見えていたが、先進国のなかでトップクラスに入ったあと、目標が見えなくなってきている。

 ゆとりが大事だという話になり、これから下っていくかというところに差し掛かっているが、そこでもう一回、引き締めをかけようとしているのが、幸福実現党である。

 学問や教育というものには、非常に「神秘的な力」があるのであって、その重要さを、教師もよく知っていなければいけない。

 幸福の科学大川隆法総裁は、『教育の法』で次のように説かれました。

「日本の高度成長期においては、みな、一生懸命に勉強しましたし、やるべきことがよく見えていました。「もっと成長し、もっとよい暮らしをするために、よりステータスの高い職業に就き、よい収入を得たい」という、そういう「坂の上の雲」に向かって、一生懸命に走っていた時代であったわけです。ところが、日本は、ある程度、先進国のなかでトップクラスに入ったあと、目標が見えなくなってきているのではないかと思います。目標が見えなくなったあと、次は、「ゆとりが大事だ」という話になり、しだいに学力が低下してきて、何となく、「みんなで、楽しめるような、楽ができる世の中のほうがよいのではないか」という感じになってきています。「高原状態を通り過ぎて、これから下っていくのかどうか」というところに、今、差し掛かっているのです。しかし、「もう、やるべきことはやったので、あとは惰性でしばらく走れるけれども、あとはだんだん下っていくのかな」という感じのところで、もう一回、引き締めをかけようとしているのが、幸福実現党なのです。やはり、学問や教育というものには、非常に「神秘的な力」があるということを知らなければいけません。まだ“何者でもない人”が、学問を通して、教育を通して、ある世界において傑出した業績をあげるような仕事ができるようになるということです。その通過点として、教育というものがあるのです。もちろん、教育だけでは十分ではありませんが、少なくとも、教育を通過し、その後、実社会で実践を積むことによって、才能を大きく花開かせることができるのです。その重要さを、学校の教師もよく知っていなければいけないと考えます。」

 大川隆法総裁は、『生命(いのち)の法』で次のように説かれました。

「いじめの問題に関連して、私は、いまの学校の霊的な状況について調査をしましたが、そこに出てきたものは、いわゆる三大悪魔でした。  三大悪魔とは、釈尊の成道を妨げようとし、一生、釈尊の妨害をしていたマーラ・パーピーヤス(悪魔・波旬〔はじゅん〕)、イエス・キリストの悟りを妨げようとしたベルゼベフ、そして、地獄界の帝王ルシファーです。さらに、その他の数知れない悪魔たちが集結し、日本の教育界の闇にうごめいていることを発見しました。  彼らのほんとうの狙い、目的は、教育界から宗教を締め出すことによって、無神論、唯物論の領域を広げ、そして、地上から真なる宗教を追い出すことにあります。さらには、子供の世界に、いじめグループや非行グループを増殖させて悪魔の領域をつくり、地獄界に数多くの人を誘おうとしているのです。そのような計画が明らかに見て取れました。  教育界という聖域は、もはや悪魔の手中にあります。その影響から逃れているのは、たとえば、良識ある一部の教育者によって指導されている私立学校や、正しい宗教によって運営されている宗教系の学校です。こういう学校では、まだ天使の光が入っていて、いじめなどがあっても、「それを解決しよう。善悪を分けよう。悪を正そう」とする価値判断が働いています。しかし、それ以外の学校には、善悪の価値判断を逃れて、何もせずに生き延びようとする人が数多くいます。  善悪の価値判断をしなければ、基本的に、どうなるでしょうか。一見、すべてが平等になるように見えながら、実は、悪魔に加担していることになるのです。そのことを知らなければなりません。  仏や神は、価値判断の下に、善悪というものを決め、人々を善導しようとしています。価値判断をしないということは、「この世は地獄界と一緒である。天国も地獄も一緒である」と言っていることと同じなのです。これは、断じて許してはいけない暴挙です。悪魔が、教育界に根城をつくり、宗教に戦いを挑んできていることは明らかです。宗教を根絶やしにするためには、教育界を占拠するのが、いちばん早道だからです。教育界に根城をつくることによって、「宗教というものは間違っている。宗教を学校から遠ざけることが正しいのだ」という考えの下に、宗教を迫害することができます。そして、宗教心のない子供をたくさんつくり、その結果、宗教心のない大人をたくさんつくることができるのです。学校教育において、「宗教を排除することが常識であり、それが大人になるための道なのだ」という路線が敷かれたならば、この世は地獄に向かって突っ走っていくことになるでしょう。」

 教育には、「原因(因)があって、条件(縁)が加わり、結果(果)が出て、さらに、その影響(報)が出てくる」(因・縁・果・報)という「縁起の理法」が、非常によく当てはまる。

 教育は、人間が今回の自分の人生をつくる上において非常に重要な役割を果たしており、一種の「魔法」のようなところがある。

 教育には人間を変える大きな力があるということは否定できない。

 総裁は、『教育の法』で次のように説かれました。

「基本的に、教育というものには、仏法真理でいう「縁起の理法」、すなわち「原因(因)があって、条件(縁)が加わり、結果(果)が出て、さらに、その影響(報)が出てくる」(因・縁・果・報)という法則が、非常によく当てはまると思うのです。それは、日本だけでなく、アメリカや、その他の国でも同様ですが、「教育というものを介在させ、通過させることによって、別の人間に変わっていく」というところが、非常に大きな特徴だと思います。例えば、ある学校で勉強を修めることによって、その人の将来の職業選択や、社会的なコース、さらには、親と同じような職業に就くか否かなど、いろいろな道筋が変わってくるわけです。そういう意味において、教育というものは、人間が、今回の自分の人生をつくる上において、非常に重要な役割を果たしているのではないかと思います。ある意味で、教育によって、まったく別の人生を歩むことができるわけです。学校の選択を変え、あるいは、学問における専門の選択を変えることによって、自分の人生が変わってしまう面があるということです。もちろん、その途中においては、家庭の経済的事情から始まって、学習環境、学校の校風、あるいは、教師との出会い、友人との出会いなど、さまざまなものが絡み合い、一つの人生が出来上がってくるところがあります。つまり、教育には、ある意味で一種の「魔法」のようなところがあると思うのです。これは、戦後だけのことではなく、戦前でもそうです。例えば、地方の石工の家に生まれて、高学歴を重ね、やがて総理大臣にまでなった人もいます。これは、『落日燃ゆ』(城山三郎著、新潮社刊)という伝記小説の主人公の話です。その人は、戦後にA級戦犯として死刑になり、悲惨な最期を迎えましたが、それでも、教育の効果として、「勉強ができれば、一代で日本のトップまで上り詰めることができる」ということを示しました。そうした機会、チャンスが、戦前の日本にもあったということです。また、明治時代まで遡れば、学問ができた人は数少ないでしょうが、そのなかでも、さらに洋行帰りの人たちには、非常に大きな違いがあっただろうと思います。外国へ行って帰ってきた人と、行かなかった人の差は、ものすごく大きかったと思うのです。その意味で、「教育には、人間を変える大きな力がある」ということは否定できません。」

教育 へ

「仏法真理」へ戻る