出家の本質は「精神態度」と「中身」にある

 一般的に、出家といえば、世俗の生活を捨て頭を剃ったり袈裟衣を着たりして、お坊さんになることを思い浮かべる。

 さらには、滝に打たれたり、長時間座禅を組んだりする修行を行い、娯楽から遠ざかり、肉食を断って粗食で過ごすというイメージもあるかもしれない。

 幸福の科学における「出家」は、髪型や服装は自由で、食べ物についてもタブーはない。娯楽にのめりこむことは戒めているが、日常生活において特別な禁止事項が設けられているわけではない。

 こうした「出家」のあり方について、「幸福の科学では、教団の職員として働くことを出家と呼んでいる」「聖職者みたいな人はいない」と理解する向きもある。だが、それはあまりにも表面的な見方だ。出家の本質は、髪型や服装や滝行といった「スタイル」にあるのではない。その「精神態度」や「中身」こそ重要です。

 そもそも、仏教は釈尊の「出家」から始まった。そうであるならば、仏教の開祖、釈尊がなぜ出家したのか、その精神はどのようなものだったかを知るべきです。

 

何かを得るためには何かを捨てる

 釈尊は、現在のネパールとインドの国境近くにあった「釈迦国」の王子として生まれ、この世的にまったく不自由のない生活を送っていた。そうした恵まれた地位と生活を、釈尊は惜しげもなく捨てて、出家の道を選んだ。この世ではつかめない「悟り」を得たいと志したからである。何か大きなことを為すためには、小さなものを捨てなくてはいけないのは、どの世界でも同じである。

 受験勉強も、一定の期間、遊びや楽しみを断ち、勉強することで、「志望校合格」という結果を手にすることができる。

 また、一流といわれるスポーツ選手は、日々ストイックに練習に専念し、食生活にも気を配ったりして、常にベストなパフォーマンスができるように自分を磨く。

 ビジネスパーソンも、ここ一番の大きなプロジェクトを成功させようという時には、楽しみを断って仕事に打ち込むでしょう。

 だが、釈尊が出家修行で求めたのは、それ以上のものだった。この世では目に見えない神仏の世界の「真実」を探究し、掴み取ろうとする志であるため、この世の常識ではなかなか理解されない面もあっただろう。

 釈尊が出家するということは、釈迦国の人々からすれば、跡継ぎが突如いなくなるわけで、「大迷惑」な話である。また、「無責任ではないか」という国民からの謗りも免れないかもしれない。

 だが、幸福の科学大川隆法総裁はこのように喝破する。 

「王としての業務を投げ捨てたということは、”流行りの言葉”で言えば、そのとおり、「契約違反」と言えるでしょう。しかし、そういうものを断ち切るのが『出家』ではあるわけです。その意味では、出家は迷惑がかかるものですが、『この世の縛りをいったん断ち切る、捨てる』という意味があるのです」(『釈尊の出家』より)

 

悟りを得ることの重み

 幸福の科学における出家も、釈尊の出家の精神と変わらないものを目指している。出家者は、幸福の科学の教えを学び、体得する「教学」や、反省・瞑想・祈りといった「精神統一」によって、多くの人を救うための「智慧」を得ることを志している。その「智慧」を得て、悩み・苦しむ人々を「救済」し、「教化」する聖務に専念するために、学歴や職歴、経歴、この世での成功やしがらみを捨てて集っている。

 宗教修行に専念し「悟り」を得るということは、それほどの重みと価値がある。

釈尊が得た「悟り」は、その後2500年以上、世界中の人々の救いとなり、導きとなった。

 また、その弟子たちも、釈尊の教えを後世につないできた。

 人々の心を潤し、幸福に導く世界宗教の原点には、「悟り」を得るという志のために すべてを捨てた方がいたということを忘れてはならない。