上司としての責任感

 社長は、「すべては私一人の責任だ」と思っているからこそ、部下に対して、「かくあるべし」という要望ができる。これは、たとえば部長でも同様である。

 上司が責任逃れをするために「おまえがやれ」と言っているように感じたら、部下は働かない。部下をよりよく使うためにも、上の立場にある者(社長、経営者、経営管理者、経営担当者など)は、まず「自分に責任があるのだ」と考えなくてはならない。

 部下にやる気を起こさせるように、発案し、掛け声を出し、目標を出して発電するのは上司である。

 幸福の科学大川隆法総裁は、『社長学入門』で以下のように説かれました。

「自分で考え、発案し、実行したことは、その結果に対して責任が生じます。その責任を受けて立たなければいけないのです。そういう意味で、社長が、「すべては私一人の責任だ」と思っているからこそ、部下に対して、「かくあるべし」という要望ができるわけです。
 上が責任を取らずに、下に対してだけ、「おまえたちがやれ」と言うのであれば、社員たちは、みな、社長が見ているところだけでは一生懸命にやり、それ以外のところでは手を抜くようになります。それは当然でしょう。
 上一人の責任ということになると、社長には、自分が直接にはやっていないことに対しても責任が来るわけなので、これは大変です。自分が見ていないことにも責任があると思っていればこそ、部下に対して要望をするわけです。
 社長は、役員を集めたり、部長を集めたりして、「このようにしてほしいのだ」と要望を出さなければいけません。これをしないと、責任だけが自分に来ます。「自分だったら、こうする」と思うことがあれば、「こうしてほしいのだ」という要望を出さなければいけないのです。
 要望を出さなかったならば、社長が望んでいるようにできなくても、しかたがないでしょう。しかし、「要望を出さなかったため、できなかったが、責任だけを自分が取る」というのは、ばかばかしいことです。
「自分ならば、こうしたい」という気持ちがあっても、実際の仕事は、他人の手を通じて行われるので、要望をしなければいけません。
 そのように、「責任を取る」という立場であるからこそ、要望をすることができるのです。部長でもそうです。部長が、「部の責任を取ろう」と思うからこそ、課長なり主任なり、下の者に対して、「こういうふうにしてほしい」と要望を出せるわけです。
 上司の要望を聞いた部下のほうは、「あの上司は責任を取ろうとしているから、仕事について、こういう厳しい指示や要求、目標が出ているのだ」と思います。「上司は、自分の責任だと考えているから、こういう要望を出しているのだ」と思えば、部下は、それに応えなければいけないと思うわけです。
 ところが、上司が責任逃れをするために「おまえがやれ」と部下に言っているように感じたら、部下のほうは、やっていられないでしょう。「私のほうを部長にしてもらわないと、そんな仕事はできませんよ」と思うことになります。
 その意味で、部下をよりよく使うためにも、上の立場にある者、すなわち、社長、経営者、経営管理者、経営担当者などは、まず、「自分に責任があるのだ」と考えなくてはなりません。
 部下にやる気を起こさせるように“発電”するのは、上司である自分なのです。それが、自分の発案であり、自分が出している掛け声であり、目標であるのです。「自分が責任を取らなければいけないのだ」と思えばこそ、その熱意が要望となって具体化し、下に降りていくわけですし、それに対して部下は応えてくれるようになるのです。
」(285~291ページ)

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