仕事に命をかける

 「仕事」というのは、仏の子である人間の本質にきわめて近い。仏は無限の創造の力と、それに伴う喜びを持っておられる。その力が、人間にも与えられている。だからこそ、仕事は命をかけてやるべきものだし、そこに魂の喜びがある。

 幸福の科学大川隆法総裁は、『仕事と愛』で以下のように説かれました。

「人間の仕事には動物たちに比べて違ったものがあることが分かります。それは、みずからの個性に応じたものを創り出していける能力を、各人が持っていることによります。
 鶏は卵を産むことができますが、卵以外のものを産むことはできません。また、卵料理を作ることもできませんし、卵をほかのものと交換して何かを得ようとはしません。このように、彼らは一定の方向づけをされているのです。
 ところが人間は、一つの材料をもとにして、いろいろなものを考え出すことができます。ここに創造の喜びがあり、大宇宙の根本仏と同じような気分を味わうことが許されているのです。
 こうしてみると、仕事そのものは、人間の本質にきわめて近いところにあると考えられるのです。つまり、仏が自分と同じような創造の喜びを人間に与えようとして、仕事というものを与えたのだと考えてよいのです。
 ここで私が言いたいのは、仕事には必ず報酬が伴うということです。その報酬は、先ほどから述べているように、単に金銭的なものだけではありません。よい仕事をしたという、人からの評価であったり、さまざまなかたちでの、その人の人格形成であったり、社会的な地位の形成であったり、いろいろなものになるでしょう。しかしながら、どのようなかたちであっても言えるのは、仕事には必ず報酬が伴うということです。
 ここで考えていただきたいのは、「本来の仕事を行なっていれば報酬が伴うというのは、ありがたいことではあるが、ごく自然のことでもある」ということです。報酬を伴うものが仕事であるということなのです。
 その前提として考えねばならないのは、仕事というものは命をかけてやるベきものだということです。仕事は、命をかけてやるだけの値打ちがあるものなのです。それゆえに報酬というものがあって、心に喜びがあるのです。
 命をかけて仕事をしていないのに報酬を得た場合には、罪悪感がつきまといます。むなしさがつきまといます。自分は何かいけないことをしているのではないかという感じがします。
 世の中を見渡してみても、命をかけて仕事をして失敗している人は少ないのです。イエス・キリストのように、命をかけて仕事をして、この世的には、なんらの地位も、なんらの金銭も得なかった人もいますが、彼はその仕事の報酬をやはり受けているのです。彼はその後、二千年にわたり、人類の師として、父として、大聖者として尊敬されてきたわけであり、それだけの報酬はみごとに得ているのです。
 すなわち、命をかけた仕事に報酬が伴わないことはないということです。そして、それをありがたく受け取るところに魂の喜びがあるのだ、と考えていただきたいのです。」
(25~33ページ)

 仕事に命をかけるためには、自分の天命を見きわめること。どうしても今の仕事に天命を見いだすことができない人は、天命を発見することに力を注ぐこと。天命の発見で仕事の半ばは終わったも同然と言ってよい。

 大川隆法総裁は、『仕事と愛』で以下のように説かれました。

「次に、仕事に命をかけるとは、いったいどういうことなのかについて、述べておきましょう。
 第一に言っておきたいのは、仕事に命をかけるためには、どうしても必要な前提があるということです。それは自分の天命を見きわめることです。天命を見きわめることなく仕事に命をかけることは難しいのです。
 たとえどんなに大きな体をした人であっても、もし勉強が好きで好きでしかたがない人ならば、一生、野球のピッチャーとして球を投げつづけることも、プロレスラーとしてリングで格闘することも、その人にとっては命をかける仕事にはならないでしょう。それは本人の魂が、物事を学んでいく、勉強していくということに生きがいを見いだしているからです。
 このように、たとえ大きな体を持ち、相撲取りやプロレスラー、野球選手になれるような人であっても、本来の天命がそこにない場合は、命をかけることは難しくなります。自分の仕事に天命を見いだすというのは大きなことなのです。
 世の多くの人はサラリーマンでしょうが、どうしても現在の仕事に天命を見いだすことができない人もいるでしょう。そうした人は、いまの世の中では転職という道がいくつも開けているので、天命を発見することに力を注いでいただきたいのです。「これは自分の天命なのだ。天職なのだ」と信じることができたならば、命をかける仕事がそこに現われてくるのです。
 とにかく天命の発見が大事です。これで、仕事の半ばは終わったも同然と言ってよいでしょう。どんなに才能のある人でも、天命と違うところに仕事を見いだしたのでは、大いなる成功はできないのです。
 不世出の画家に事務仕事をさせてもうまくいかないように、また、天来の科学者に詩を書かせてもうまくいかないように、それぞれあてはまる場所があります。みずからが何にあてはまるかということを、よくよく見いだしていくことが大事なのです。」

 

 仕事に命をかけるために二番めに大事なのは熱意である。

「仕事に命をかける第二の方法として言っておきたいのは、やはり熱意こそが最重要事であるということです。
 世の中には、「この人はずいぶん頭のよい人だな」と思える人がたくさんいます。ところが、そうした人が、仕事という面で見て、非常にすばらしい立派な仕事をしているかというと、必ずしもそうではありません。それだけの仕事をしていない、それだけの地位に就いていない、それだけの報酬をもらっていないので、「こんなに頭のよい人が・・・」と思うことがよくあります。私はそれが不思議になって、「なぜなのだろうか」と、よく観察してきました。
 その結果、得られた結論は、熱意が足りないということでした。どれほど頭のよい人であっても、熱意がなければ道は開けません。熱意があればこそ、その仕事に磨きがかかるのです。
 陶器を焼く場合、たとえ、どのような名陶器職人が焼いたとしても、その粘土がいくらよかったとしても、その上薬がいくらよかったとしても、その模様がいくらよかったとしても、窯の火の熱が足りなければ、よいものは焼けず、よい陶器は決してできません。
 よい色艶を出し、みごとに焼き上げるために必要な火が、熱意なのです。この熱意なくしては、いくら材料がよくとも、いくらデザインがよくとも、一級のものはできないものなのです。
 イエスがあれだけの仕事をしたのも、熱意があったからでしょう。また、ソクラテスは頭のよい人だったでしょうが、あれだけの大きな名前を人類史に遺したのは、やはり熱意があったからでしょう。孔子があれだけの仕事をし、諸国を巡りながら教えを説きつづけた原動力は、やはり熱意にあったのでしょう。
 釈尊があれだけ大きな仕事を遺せたのも、熱意があったればこそのことでしよう。頭のよい人のことを、「お釈迦様のようだ」と昔はよく言ったわけですが、頭がよいだけでは、あのような大きな仕事はできないものです。結局、熱意が勝っていなければだめなのです。
 どんなにすばらしいものであっても、埋もれてしまえばそれまでです。埋もれさせないで、最後の磨きをかけ、輝きを生み出すのに必要なものが熱意なのです。
 仕事には体力も必要でしょう。知力も必要でしょう。しかし、すべてに勝るものは熱意です。熱意のある仕事こそが、ほんとうに道を開いていくものなのだということです。熱意なきときには、決してよい仕事はできません。
 これは会社仕事だけについて言っているのではありません。家庭に目を転ずるならば、主婦の仕事ひとつをとっても、そのとおりなのです。熱意を持って家事を切り盛りし、夫を支えている主婦があればこそ、夫は職場に出て獅子奮迅の活躍ができるのです。
 このように、熱意はすべてに勝る宝だということを、忘れないでいただきたいと思います。」

 熱意が最も大事である。熱意の前には、頭の良さや体力の強さといった少々の違いは、それほど大した問題ではない。成功しないのは、要するに熱意が足りないのである。

 大川隆法総裁は、『経営入門』で以下のように説かれました。

「陶器は、いくら粘土や上薬がよくても、あるいは模様がよくても、窯の火の熱が足りなければ、よいものは焼けません。同様に、仕事には熱意が大事です。世の人々は、この辺を誤解していることが多いのです。
 成功しなかった人は、その理由として、「生まれた家が悪かった」「時代が悪かった」「お金がなかった」「学校時代に勉強ができなかった」「友人が悪かった」など、いろいろなことを挙げます。もちろん、そういう影響もあるでしょう。
 しかし、最後は熱意なのです。「あなたが成功しなかったのは、熱意が足りなかったからだ」ということです。ほとんどこれに尽きるのです。
 天命から外れていない仕事をしているのに成功しない場合は、「熱意が足りない」ということです。自分が本当に好きで、自分の生命を生かし切れる職業、仕事であったならば、熱意が湧いてこなければ駄目なのです。
 少々の能力差や身体的ハンディなどといったものは、熱意の前には吹き飛んでしまいます。年齢的なものもそうです。すべて吹き飛んでいくのです。
 成功しないのは、要するに熱意が足りないのです。一生懸命に不成功の言い訳を探したところで、どうなるものでもありません。
 勉強でも同じです。学校時代に勉強ができなかったことを、いくら言ってもしかたがありません。その後、熱意を持ってカバーするしかないのです。
 大学では、普通、四年間しか勉強しません。しかも、四年間まともに勉強している人はごく一部であって、ほとんどの人はそれほど勉強していません。したがって、社会に出てから、五年、十年としっかり勉強していけば、勉強不足は十分にカバーすることができます。それで済むことなのです。
 学生時代の不勉強をいつまでも言っていてはいけません。やるかやらないかは各人の熱意です。それだけのことです。
 「自分は過去にこうだったから、現在はこうだ」という説明をしているだけの人は、それだけの人間なのです。「過去はこうだったが、現状を変えよう」と思ったならば、そこを熱意で埋めていかなければならないのです。言い訳をしてはいけません。
 熱意は本当に大事です。『仕事と愛』には、釈尊、イエス、孔子、ソクラテスという四聖の例を引いて述べていますが、彼らがなした仕事は、単に頭が良いだけでできる仕事ではありません。
 救世の事業はすべてそうです。いくら頭が良くても、それだけでできるものではなく、やはり熱意が必要です。熱意が勝っているからこそ、人々が動いていくのです。
 師だけではなく、弟子も同じです。弟子の熱意がどれだけあるかによって、法が広がっていくこともあれば、広がらないこともあります。
 弟子が、「自分が尊敬されたい」という「奪う愛」の思いだけで仕事をしていれば、法は大して広がらないでしょう。しかし、「人々を救いたい」という気持ちが本当に強ければ、法は広がっていきます。そういうものです。
 熱意が最も大事です。熱意の前には、頭の良さや体力の強さといった少々の違いは、それほど大した問題ではないのです。」
(66~70ページ)

 

 仕事に命をかけるための第三の条件は、世の中には地上の人間の目に見えない働きがあることを信ずること。それは、人間には仏神のご加護、天上界の徳高き霊人たちの守護・指導があると信じること。本源なるもの、崇高なるもの、さらにはご先祖や先代に感謝する心。大いなるものに帰依し、大いなるもののために働くという気持ちである。

「命をかけて仕事をしていくための三番目の条件は、世の中には地上の人間の目に見えない働きがある、ということを信ずることです。
 こう言ってしまうと、現代的な人びとには、「古い」「迷信だ」ととられがちですが、まさしくこれは真実なのです。
 命をかけて仕事をする場合に大事なのは、自分の運が信じられるということです。運が信じられるには、仏の加護を受けているという感じ、あるいは、仏が自分の仕事を見て喜んでくださっているという気持ちが大事なのです。
 仏という言葉がもし大きければ、先祖(あるいは経営者であれば、先代、先先代の経営者といった人たち)など、自分に関係のある人びとが喜んでくださっているという感じです。これが大きいのです。
 たとえば四代目、五代目以降になって傾いていく会社の多くは、初代、二代、三代とわたった最初の経営者たちの苦労に対して、充分に報いていないことが多くあります。その出発点、初心を忘れ、基礎をつくってくれた人たちへの感謝を忘れたときに、社運は傾いていきます。そして同時に、経営者の運も傾いていくものなのです。
 すなわち、命をかけて仕事をしていくための方法は、仏あるいはそれ以外の徳高き霊人たちの充分な指導を受けられるような自分になるということです。彼らが喜んでくれるような仕事をしていると思えばこそ、命をかけた仕事ができるのであり、それゆえにこそ運が開けて大きな道ができてくるのです。
 別の言葉でいえば、信仰心と言ってもよいでしょう。信仰心という言葉に抵抗があるならば、感謝する心と言ってもよいでしょう。本源なるものに感謝する心、崇高なるものに感謝する心と言ってよいでしょう。
 こうした大いなるもののために働くという気持ち、大いなるものに帰依するという気持ちなくして、仕事に命をかけるのはきわめて困難なことなのです。この根本を忘れてはいけません。
 そして、大いなるもののために働くという気概なくして、出世していくこともたぶんないのです。頭がよいのに出世していかない人たちはみな、評論家的な立場に立って、人のことをあれこれと言うけれども、結局は感謝の心がなく、また熱意もない、といったことになっているのです。熱意を生んでいく原動力には、こうした大いなるものへの感謝があると思います。
 そして、その大いなるものへの感謝を持って働いている人の姿を見て、それをあざ笑うことのできる人たちは、人間としてまことに情けない人たちだと思うのです。そうした人たちの冷笑に気をつかうことなく、努力・邁進して、仕事をつかみ取っていくことが大事であると感じます。」

 

仕事に命をかける方法

 本当の喜びとは、すべての人が同じ職業に就いたり同じ立場に就くことではない。それぞれの人間が持って生まれた天命を生かし切ってこそ本当の喜びがある。極めて厳しく、つらいことでもあるが、そこに目を背けてはいけない。自分の天命を見極めることは、仕事に命をかける方法であると同時に仕事を通じた自己の悟りでもある。

 大川隆法総裁は、『経営入門』で以下のように説かれました。

「自分の天命を見極めることは、仕事に命をかける方法であると同時に、自己の悟りでもあります。「『いかなるか、これ、本来の自己』ということを、仕事を通じて探究せよ」ということなのです。
 すなわち、「自分自身を知れ。仕事の世界には他の人が存在する。そのなかで、自分の果たすべき仕事、役割は、どのようなものであるか。天命を自分自身で知れ」ということです。
 自分の天命を見極めるのは、極めて厳しいことであり、また、つらいことでもあります。ある意味では、自分自身の力量や能力、才能、持って生まれた運などを、第三者の目で見抜かなければいけないのです。
 しかし、そこから目を背けてはいけません。生まれてから現在までの自分自身を第三者の目で見てみると、その力量や能力、天分などが、ある程度、分かってくるはずです。自分の天命を見極め、それを受け入れたならば、次に、適材適所をよく考えることが大切です。
 自分をじっと見て、自分は「鑿(のみ)」として使える人間なのか、「鉋(かんな)」として使える人間なのか、「鋸(のこぎり)」として使える人間なのかを考えなければいけません。
 そして、「鋸の役割が自分には最も向いている」と思うならば、そこに自分の最高の仕事を求めていくべきです。あるいは、「鑿のように一本の溝を細く掘っていくのが自分の仕事だ」と思えば、その道に生きるのも一つの選択です。
 そのように、自分自身の器をよく見極めなければいけないのです。
 本当の喜びとは、すべての人が同じ職業に就くことでもなければ、すべての人が同じ立場に就くことでもありません。それぞれの人間が、持って生まれた天命を生かし切ってこそ、本当の喜びがあるのです。
 金槌(かなづち)には金槌の喜びがあります。金槌に「鉋の役割をしなさい」と言っても無理です。金槌は釘を打ち込んでいくことに、やはり喜びがあるのです。
 したがって、「自分の本来の喜びは、どこから得られるのか」ということを、よく知る必要があります。「経営トップとしての仕事をすることが喜びだ」という人もいれば、「補佐役こそが最高の能力発揮の場だ」という人もいるのです。
 それぞれの役割を十分に知ることが大事です。これは、単に「足ることを知る」ということではありません。天命を知った上で、自分を最高度に発揮し、発展させるための考え方なのです。
 天命と違うところでいくら努力をしても、ある意味で“努力逆転”になるのは当然のことです。人にはそれぞれの天命があるので、それに忠実に生きていくことが最高の自己発揮になります。天命とは全然違うところで努力をしても、やはり成功はしないものです。」
(60~66ページ)

 

「最終的には、やはり、トップが“船長”なので、トップの見識が高くならなければ、会社の発展は無理で、どこかで“ずっこける”ことになります。そういう意味で、最後には、やはり「天命」を信じたくはなります。
 小さいうちは、「天命」というほどのものではないでしょうが、大きくなり、社会全体に影響を与えるような公器になってきたら、やはり、「天命」に殉じなくてはいけない面は出てくるのです。
 「大きくなればなるほど、その責任の重さや、『判断の正しさ』というものの重みを分かるような人間に、変わっていかなければならないのではないか」と考えます。ただ、これは簡単ではないと思います。」
(『「実践経営学」入門』)

「私が言っておきたいのは、「『仕事をしたい』という気持ちは人間の天分である」ということです。それは後天的に与えられたものではなく、「人間として生まれついた」ということ自体に伴っている天分である。そう考えるのです。
 人間は、一つの材料をもとにして、いろいろなものを考え出すことができます。ここに創造の喜びがあり、大宇宙の根本仏と同じような気分を味わうことが許されているのです。
 仕事そのものは、人間の本質に極めて近いところにあると考えられます。つまり、「仏が、自分と同じような創造の喜びを人間に与えようとして、仕事というものを与えたのだ」と考えてよいのです。」
(『仕事と愛』P-19)

 

仕事には報酬が伴う

 アメリカの自動車王 ヘンリー・フォードは、「仕事から得られるものは社会に還元され、その仕事の存在が人々の益するものでなければ、その仕事自体存在すべきではない」と述べている。

 松下幸之助は、「私は、自分の仕事に命を賭けるということほど大きな喜びはないと思います。また、どんな仕事でも、それほどの思いで取り組むものでなければ、本当の成功は難しいのではないかと思います。」と言っている。

 

仕事と天命について考える

 孔子の『論語』には、「十有五にして学に志す」(立志)、「三十にして立つ」(而立)、「四十にして惑わず」(不惑)、「五十にして天命を知る」(知命)という教えがあります。
 人生は自分の天命を探す旅であり、また、現代においては「自分の仕事のなかにこそ、天命を見出す」ということがキーワードであるのは間違いありません。

 大多数のサラリーマン諸氏にとって、今の仕事に天命を見出すことは難しいかもしれませんが、一つの選択肢として転職という道も開かれています。
常に「わが天職とは何か、わが天命とは何か」を問いかけ、その発見に注力することが、成功への扉を開く鍵かも知れません。

 大川隆法総裁は、以下のように説かれました。

「「天職、天命が分かるか」といえば、そう簡単に分かるものではありません。
 「天命を知る」のには、私自身もすごく苦労しましたし、簡単なことではないと思います。また、現在、日本が“ややアメリカ化”してきているところを見れば、今世の人生で二、三回ぐらい転職することもありえる時代には入っているかもしれません。そういう意味では、決め切れない面はあるでしょう。
 基本的には、「天命の発見」であり、「天職とは何か」についての答えを求めることが大事ではないでしょうか。そして、その答えは、自分が好きなことの延長上にある場合が多いのは事実です。天命は、だいたい自分が好きなことの延長上にあって、それと、採用する側の「こういう人が欲しい」という条件とがクロスしたときに、就職は成立するのです。」
(『「天職」を発見する就活必勝の極意』)

「実に難しいことではありますが、「人間の本能あるいは動物性に基づいたら、このようになるだろう」と思われることとは違うことを、平気でやれて、それにこだわらずに生きられる人、あるいは、利害にかかわらず、公平無私を貫けるような人、そういう人のところに徳が発生してきます。
 自分の天命を感じたり、「自分の本当の活動源、行動力の源泉は、ただ精進にのみある」ということを信じたりしている人のなかに、徳は生まれてくると思うのです。
 やはり、裸一貫、精進の力で、自分が自分をセルフメイド・マンとしてつくっていかなくてはなりません。そういう精進の力を持って、天命を信じつつ努力していき、道を拓いていく人に、多くの人たちがついてくるのだと私は思います。」
(『忍耐の法』)

「天命が大きければ、仕事に邁進しなくてはいけないと思いますし、「天命はそれほどではない」と思うのなら、多少、この世的に賢いものの考え方をする必要もあるかと思います。結局、「自分は何者か」ということの発見になるのではないかと思います。
 女優としてヒットしている人、歌手としてヒットしている人、野球選手として活躍している人など、いろいろいると思うのですが、そのような人であっても、みな、家庭を持つと環境に一定の変化が起きるので、「仕事を続けられるかどうか」という同じ問題を、おそらく持っていると思います。要するに、「変化しないことをもって、よしとする人生」と、「変化していきながらでも、生き延びていくことを、よしとする人生」と、この両方がありうるのです。」

(『凡事徹底と独身生活・結婚生活』)

「自分にとって「天職」と言えるものに目覚めなければいけません。
 単に、「日々を過ごしている」とか、「仕事をしている」とか、「家族を養っている」とかいうようなレベルから、もう一段、「今世、この世に命を享けたということの意味を感じられるような天職」に出合えるかどうか。これが、若い人たちにとって非常に大事なことであろうと思います。「一生続けて全うしたい」と思うような仕事に辿り着くのは、なかなか簡単なことではありません。
 若い人たちも、今、「これからしなければならないことは、これだけありますよ」と言われても、信じることはできないかもしれませんが、まず、「志」を立ててください。
 次には、「その志に向かって、自分自身を説得していくこと」が大事だと思うのです。やがて、「何ゆえに、その志を成し遂げる必要があるのか」と自問自答しながら、現実の世界とぶつかりつつ、その壁を破っていかなければならないときが来るでしょう。」

(『信仰の法』)

「『仕事をしたい』という気持ちは人間の天分である」。
 人間の本質が、本来、何もしないではいられない性分であることを考えると、人生の大半を占める仕事と天命について考えなければなりません。

「世の中には、さまざまな人がいます。進む道は人によって違うでしょう。それぞれの才能があるでしょう。向き不向きがあるでしょう。好みの違いもあるでしょう。しかし、そのなかで、どうしても、どうしても、心の奥底から湧き出してやまない思いがあったならば、それが、あなたの使命であり、天命なのです。
 「自分の天命を知る旅」こそが青春の旅です。「自分は、いったい何のために生まれ、いったい何をなし、いかにして死んでいくか」ということを悟るのが青春期の悟りです。
 「自分自身をよく見つめて、自分の才能や性格、性質、そして、過去二十年間の生き方、自分の行ってきたことなどを振り返り、『自らの内にある使命・天命とは、いったい何であるか』ということをつかんでほしい」ということです。」
(『Think Big!』)

 論語にも、「吾十有五にして学に志す。三〇にして立つ。四〇にして感はず。五〇にして天命を知る」とあるように、天命を見極めるのに何十年もかかるというのが古来の常識です。それも、努力を重ねて人間完成の道を歩んで初めて本当の自分が見えてくる。そのためには、自分自身を見つめる作業、すなわち「反省」が必要になる。

 経営者たるものは、「トップの能力が限界に達したならば、それ以上には会社は発展しないものだ」ということを知らなければならないのです。

 会社が発展しないとき、経営者は、得てして「今は不況だから」「従業員の質が悪いから」「今度の製品が当たらなかったから」「同業他社のあの製品がヒットしたので、うちの商品が売れなかった」「マーケットが飽和状態にあった」など、自分以外のものに原因を求めがちです。

 しかし、そういうことをいくら説明しても駄目なのです。

 経営者たるものは、「全ては自分自身の才覚と力量、努力のなせる業である」と考え、自己反省をしなければいけません。もちろん、他に原因があることもあります。しかし、他に原因を求めるだけでは、自分の発展はありません。トップたるものは、「自分の責任である」と思わなければいけないのです。」(『経営入門』P-62~63)

 

職業を通して自らの天命を知り使命をはたす

 大川隆法総裁は、以下のように説かれました。

「ほとんどの人間は、一生の大半を、何かの職業に従事して過ごします。ドイツ語では、職業のことを「ベルーフ」と言いますが、これは、「神の召命」という意味でもあります。つまり、職業を通して、自らの天命を知り、使命をはたしてゆきなさいということなのです。
 経営者の高級霊としては、自動車王のヘンリー・フォード、鉄鋼王のカーネギー、あるいは、ロックフェラーなどがおりますが、彼らも、七次元菩薩界で、「現代社会と経営の問題」に取り組んでおります。
 高級霊、必ずしも宗教家ならずと言えます。つまり、高級霊たちは、さまざまな方面で、職業を持って、肉体修行に励んでいるのです。ですから、各人が、それぞれの職業のなかで、最先端をきわめて、しかも、世の人々に役立つ生き方をすることは、仏の御心に適した、また真理の実践活動でもあるのです。ですから、あの世がどうしても信じられないという人や、宗教と聞いただけで鳥肌が立つという人でも、真理に則った生き方はできるのです。」
(『黄金の法』)

 

 「仕事は命をかけてやるべきもの」という箴言は、至言であり、スーパーエリートの条件であると言えましょう。大川隆法総裁は、自著『仕事と愛』のなかで、仕事に命をかける三つの方法として、第一に「天命をみきわめる」を前提としてあげています。人にはそれぞれ持って生まれた神様からのギフトがあると言われますが、自らに備わっている「個性」や「才能」に気づいて、それを活かすことから始めてみることです。

 人の失敗を指摘して直してあげることも大事なのですが、言いすぎると相手が傷つくこともあるので、それを知っていながら受け容れることも大事です。やはり、人には癖がありますし、多少の欠点はあるものです。しかし、それがあるために、「この人は駄目だ」というような感じで、全部を否定することがあります。
 人は個人個人で違いますので、もし欠点が目についたとしても、長所のところも含めてトータルで見るだけの寛容さを持っていないと、人材は使い切れないわけです。(参考 『帝王学の築き方』より)

「さらに大きな成功をしていきたいという場合、個人としての成長は当然必要なのですけれども、そのなかで自分だけのことを考えずに、「人を育てる」という面が要ります。
 つまり、自分の考え方を書いて表したり、言葉で繰り返し言ったりすることで、自分の「経験」や「智慧」、「体得していったもの」を他の人に伝授する方法を考える努力は必要だと思います。これは、経営者でいえば「経営理念の練り上げ」ということになりますし、個人でいえば、大作家になった人が後進を育てる意味で、ベストセラーを書く条件をノウハウ的に教えていくというようなことです。
 勉強の仕方のようなものは、みんな秘密にして隠しているところは多いと思うのですけれども、そのなかから公開して、ほかの人も同じような成功ができるように育てていく面は要ると思うのです。(『「成功の心理学」講義』より)

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