出世の条件

 学歴も才能もあるのに出世できないという人。あら探しをして人を裁く傾向はないか、心が狭いのではないか、だから人心が離れていったのではないのか。大切なのは寛容さを学ぶことである。

 幸福の科学大川隆法総裁は、『幸福の革命』で以下のように説かれました。

「「自分は才能あふれる人間である。学歴は高く、教養も能力もある。しかし、現実には成功を得ていない」と思っている人は数多くいます。
 そうした人は、自分が成功できない理由が分からず、「世の中のブームに乗り遅れた」「他の人のせいでこうなった」「時に利あらず」などと考えがちです。
 しかし、そうではありません。自分の心の狭さに原因があるのです。
 孤高であることはよいとしても、「孤高と言いつつ、実は、みずからの心の狭さを誇っている部分があるのではないか」ということです。
 心の狭さとは、結局、人を裁く傾向です。すなわち、他人のあら探しをする傾向です。
 優れた才能や資質、豊かな教養を持ちながらも成功しない人たちに共通する傾向は、「他人のあら探しをする」ということなのです。
 こうした人には、他の人は決してついてきません。たまたま、オーナー社長であったり、どうしても抜き難いタイプの指導者として、現在の立場についていたりしても、徳がないため、やがては人の心が離れていくのです。
 そうした徳のなさは、結局、その人が強い自己愛を持ったナルシスト(自己陶酔者)である点に原因があります。
 自分の孤高の性格をよしとしているため、他の人の人格を受け入れようとせず、人を裁こうとする傾向があるのです。
 高い知能を持ち、素晴らしい経歴がありながら、現在、成功していない人は、この点を点検していただきたいと思います。
 要するに、「寛容さが欠けているのではないか」ということです。
 寛容さの基礎にあるのは、「多様な価値観を持てる」「さまざまな個性を持った人を、包み込むように愛せる」ということです。
 これができない人は、偉大な指導者として多くの人を引っ張っていくことはできないのです。
 もちろん、仕事の過程で他の人が失敗した場合は、それを修正させていく必要があります。しかし、そればかりではなく、他の人の欠点をも愛せる人間となることが大切なのです。
 他の人の欠点がかわいく見えてきはじめたならば、あなたはすでに成功者への道を歩んでいるのです。
 逆に、他の人の欠点がどうしてもがまんできず、その人を自分の視界から完全に消してしまいたいと感じるならば、いまは成功しているとしても、やがて必ず逆境のときが来ます。これは予言できます。
 どうか、寛容ということを学んでください。これも大いなる愛なのです。」
(71~74ページ)

 寛容は、大きく人びとを包みこんでいく優しさであり、愛の心の発露であって、多くのものを受け入れられる ゆったりとした大きな器になるということである。

 そんな愛の心を持っていると、嵐のときにいろいろなものが大きな木の下に避難してくるように、自然にいろいろな人びとが集まってくるようになる。

 傑出しているのに、いま一つのところで成功しない人の特徴の一つは、この「寛容さ」が欠けていることである。

 総裁は、『ダイナマイト思考』で以下のように説かれました。

「傑出した人物が、いま一つのところで成功しないで失敗の憂き目にあっている姿を、私は何度か見てきましたが、そうした人には共通の特徴があります。一つは寛容さというものが欠けていることです。
 非常に優れた知性を持っていたり、人にはないような専門技能を持っていたり、特殊な経験を持っていたりしても、自分のその特殊性というものをどうしても鼻にかけてしまい、他の人を見下すような傾向がある人がいます。あるいは、優れたところが逆に足枷(あしかせ)になって、他人の欠点がやたらと目について、それを暴きたてる人もいます。
 こういう傾向のある人は、残念ながら、才能があっても出世することなく、不遇のうちに消えていくことが多いように思います。このような人たちは、もともと優れた知性があり、また優れた環境のなかに育ったのでしょうが、残念ながら、大切なただ一つのことを学び忘れたのだと思います。それが「寛容」ということなのです。
 現在、寛容ということの大切さを教えてくれる人は、ほとんどいなくなりました。また、学校で教わるわけでもありません。しかし、寛容の心は非常に大事であり、これは別の意味での愛の心であるわけです。寛容の心は、大きく人びとを包みこんでいく優しさであり、愛の心の発露です。
 そのように、人びとを包みこもうとする愛の心を持っていると、たとえば嵐のときにはいろいろなものが雨宿りをしようと大きな木の下に避難してくるように、寛容な心を持っている人のところに、自然自然にいろいろな人びとが集まってくるようになります。それは、寛容な人は、決して他の人を責めることなく、他人の欠点に目をつぶり、しかも自分は大木のように枝を広げ葉を茂らせて、一方的に他の人びとをかばってやる、人びとに憩いの場を与えるという愛の実践に生きているからです。ですから、この寛容の美徳というものを、もう一度、深く深く知っておく必要があります。
「寛」という言葉は「くつろいで、ひろい」という意味になります。「容」という言葉は「受け入れる」ということです。すなわち、「寛容」とは、多くのものを受け入れるような、ゆったりとした大きな器になるということです。
 あの大海のように、さまざまな河川から水が流れこんできてもゆったりと受け止める心、それが寛容の心です。才気走っていながら、なぜか後輩に抜かれていったり、同僚に先を越されて立身出世が遅れていく人は、寛容の心が欠けているのではないかと、自分自身を点検してみてください。」
(73~76ページ)

 

 受験勉強ができて、学歴が高く、周りの人から期待されているのに仕事ができないという人は何割かいる。

 そういう人たちには、第一に気配りができないこと、第二に勘が鈍いこと、第三にイマジネーション(想像力)がないことのいずれかの特徴を必ず持っている。

 第一の気配りができないという中には、イデオロギー性が非常に強い人が入っていることもある。

 総裁は、『不況に打ち克つ仕事法』で以下のように説かれました。

「ところで、世の中では、受験秀才は出世しやすいように思われていますが、受験秀才であっても、出世しない人もいます。そういう人を見ていると、だいたいの共通項として、一つには「気配りができない」ということがあります。勉強ができても、気配りができない人はやはりいるのです。
 次は、「勘が鈍い」ということです。こういうタイプもいます。勉強ができて、参考書の内容を覚えたり、問題集を解いたりすることはできても、勘の鈍い人はいるのです。
 さらには、「イマジネーション(想像力)がない」ということが挙げられます。およそ、この三つに尽きると言えます。
 このような、「受験勉強ができて学歴が高く、周りの人から期待されているのに、仕事ができない」という人は、率的に見ると、五割は超えませんが、三割ぐらい、あるいは、もう少しいるかもしれません。「この世的に学力がある」と評価された人のうち、六、七割ぐらいの人はそれなりの仕事をしますが、一定の率で、どうしても“空振り”をする人がいるわけです。
 「自分は、これほど高学歴なのに、どうして人の評価が低いのかな」「昔は、あんなに勉強ができたのに、どうして成功しないのかな」と思うのであれば、まず、自分は気配りができているか、点検する必要があります。そういう人のなかには、イデオロギー性の非常に強い人がいます。
 例えば、マルクス・レーニン主義を信奉している政党の人たちが、そうです。戦後、資本主義が発展し、繁栄した国の一つである日本というところで、その思想を当てはめたならば、結論がすべて反対になることがあります。
 このタイプの人のなかにも、よく勉強した人はいます。共産主義や左翼系の哲学を勉強したような人です。ただ、「そうした勉強がよくできる」ということと、「現実世界に、その考え方が合っているか」ということとは、別の問題なのです。
 次に、書類仕事に関しては、非常に判断が速いし、仕事も速いのですが、「この人は何だかもの足りないな」と思える人がいたならば、その人は、だいたいイマジネーションがありません。
 書類はつくれても、例えば、「この仕事を実際にやってみたら、どうなるか」「この書類に基づいて、大勢の人が動き、お金を使った結果、どうなるか」ということが想像できないのです。受験勉強においては、瞬間的判断を要求されることが多いので、受験的に頭がよい人は、そういう能力は持っています。しかし、「判断したあと、どうなっていくのか」ということについては、あまり教育されていないので、そこで躓きが起きやすいわけです。
 もし、「自分は頭がよい」と思っているのに、不遇をかこっている人がいたならば、「自分は、人に対する気配りができないのではないか」「勘が鈍いのではないか」「イマジネーションがないのではないか」ということを振り返っていただきたいのです。この三つを点検したら、必ずどれかに当たります。」
(185~191ページ)

 気配りについては、あまり自分のことばかりを考えないことであり、ほかの人たちがどのようなことを考え、どのようなことに関心を持ち、何をしているのかを観察することである。

 勘を磨くには孤独な時間を過ごすこと。自分一人のときに物事を考えたり、あるいは本を読んだりすること。

 反省や瞑想は孤独な時間を過ごすためのよい機会なので、そういう機会に しばらく自分を静かに見つめる時間を持つことである。

「それでは、この三つのどれかに当てはまる人は、どうすればよいのでしょうか。
 気配りについて当てはまる人は、まず、あまり自分のことばかりを考えないことです。そして、「ほかの人たちが、どのようなことを考え、どのようなことに関心を持ち、何をしているのか」ということを観察することです。自分のことしか考えていないから、気配りができないのです。
 頭のよい人であっても、自己中心になり、自分のことしか考えていない人はたくさんいます。自分の言いたいことしか言わず、「ほかの人は、どのように考え、どのように反応しているのか。どのような問題点を抱えているのか」ということについては関心がないので、周りの人のことが分からないのです。
 こういうタイプの人は、少し、自分のことに夢中になるのをやめて、他の人に対して目を向けるべきです。
 例えば、電車のなかでも、新聞ばかり読んでいないで、少しは新聞を閉じ、「今、周りの人は、どのようなことをやっているのか。何を話しているのか。どのような週刊誌を読んでいるのか。どのようなしぐさをしているのか。誰が席を立って誰が座っているのか。お年寄りはどのへんに動いていくのか。子供はどうしているのか」など、いろいろなものを見てみることです。そうすれば、世の中の問題点がよく見えてくるのですが、そういう関心がない人は、どうにもならないのです。
 会社のなかにおいても、そうです。自分の仕事だけに熱中してはいけません。やはり、「今、ほかの人は、どのような電話をしているのか。どのような受け答えをしているのか。どのような仕事をしているのか」ということを、広い目で見れなくてはいけないのです。
 これが見えない人は、あまり成功しません。言われた仕事を達成することにしか専念していないからです。
 次に、「勘を磨く」ということですが、これも、受験勉強には必ずしも付随しないものだと思います。「ヤマ当て」の天才は別として、普通は、必ずしも付随しません。
 それでは、勘を磨くには、どうすればよいかというと、やはり、「孤独な時間を過ごしたことのない人には、勘がひらめかない」ということが言えます。
 「孤独な時間を過ごす」というのは、自分一人のときに、物事を考えたり、あるいは、本を読んだりすることですが、そのように、自分一人の時間・空間のなかで自分を見つめたことのない人には、勘が働かないのです。
 いつもガチャガチャと忙しくせずにはいられない人は、いわゆる「ベータ波動」の人です。こういう人は勘が働きません。
 反省や瞑想は、孤独な時間を過ごすためのよい機会です。そういう機会に、人と話をせずに、しばらく自分を静かに見つめる時間を持つことです。そうすると、勘が鋭くなってくるのです。これも一つの修行だと思います。」
(192~195ページ)

 出世するための条件はいろいろあるが、その第一条件は とにもかくにも働くことです。

働くことを好きになり、楽しくなること。

 そして、働きの褒賞はお金ではなくて、働きそのものによって与えられるということを知ることである。

 総裁は、『仕事と愛』で以下のように説かれました。

「出世するための第一条件は、とにもかくにも働くことです。
 いくら頭のなかで方法論や策略を練ったところで、あるいは、よい知恵を仕込んできたところで、結局、実際に働くという段階で証明された実力でなければ通用しないのです。そして、働くという段階で証明される実力とは、広い意味で、働くことが好きだということです。また、よく働く人が実力のある人だということです。
 出世の条件としては、まず、働くことが生きがいであり楽しいということです。そして、働きの褒賞は働きそのものによって与えられるということを知ることです。すなわち、「働くことがうれしい」「働くことが楽しい」という境地になっている者にとっては、働くことはもはや抜きがたい魅力であり、他の人とは違った目の輝きをもって取り組まざるをえないものになっているのです。
 働くことそのもののなかに充実感を味わうことがどれほど大事であるか、みなさんはよくよく考えたことがあるでしょうか。よく働いて、「きょうはよい仕事ができた」「ことしはよい仕事ができた」と思うことによって得られる喜びは、ほんとうに他のいかなる喜びをも凌駕するものなのです。
 遊びやかけ事、あるいはスポーツなどのほうが、働くことよりも楽しいという人は、私に言わせれば、たいていは真実に働くことの喜びを充分に知っていない人だと思えるのです。その喜びが充分に分からないからこそ、他の喜びのなかに逃げているように思えます。
 人生を七十年、八十年と見て、その年数をふり返って総括してみたときに、自分自身がいちばん喜びとするものは何でしょうか。それは「これだけの仕事ができた」ということです。これに勝る喜びは決してないのです。そして、その喜びは、決して偶然に起きるものではなく、働くことを続けていくことで出てくるものなのです。
 たとえば、金鉱をつるはしで掘り出すときには、一定の深さまで掘らなければ金鉱が出てこないように、働くということも、一定の年数、一定の深さで耕しつづけなければ、その喜びは出てこないものです。
 これが、その人の天職ともいうべき職業によって喜びを得た人と、単にアルバイトとしてしか働いたことのない人の違いとも言えましょう。
 アルバイトのなかには確かにおもしろいものもあるかもしれません。また、一時的には、通常のサラリーマン以上に、時間あたりの収入が得られることもあるかもしれません。しかし、長続きする人はいません。それが本来の職業だと思っていないからです。アルバイトから得られるものは、やはりお金という対価だけであって、それを超えた人生の喜びそのものは得ることができないと思います。
 まず私は王道から入っていきたいのです。出世の条件は、とにかく働くことが好きであること、働くことそのものが喜びであることです。働くことがいやな人間に出世はありません。たとえ一時的に出世することはあっても、決して永続することはないのです。」
(75~82ページ)

 

有能な人間から有益な人間に

 大川隆法総裁は、『仕事と愛』で以下のように説かれました。

「次に、出世の第二条件を述べておきましょう。第二の条件は、その人が生きている社会や組織のなかにおいて、「有用な人間」になるということです。言葉を換えれば、「有益な人間」と言ってもよいでしょう。
 ここでよく読んでほしいのは、「有能な人間」とは書いていないことです。出世の条件は有能な人間であることではないのです。有能な人間ではなくて、有用な人間であり、有益な人間であるということです。この違いがお分かりでしょうか。
 私が言いたいのは、能力というものを、その人が所属するグループの利益に結びつけていったときに、その人は有用で有益な人になるということです。
 会社というところは、その人の有能さを証明するためにあるのではありません。他の多くの人びとのために、利益や便益を生み出してこそ、その人の存在価値があるのです。会社は学校のように学業成績をつけてくれるためにあるのではない、ということを知らなければなりません。
 したがって、能力の高い人ほど、有能な人間から有益な人間に変身していく努力をしなくてはなりません。」
(74~79ページ)

 出世の条件としての「有用さ」において、ここでは、仕事をする上での落とし穴を採り上げる。

「ビジネスエリートたちの大半は、これに気が付いていないことが多いのです。

 彼らは、「自分が出世したのは有能だからだ」「有能であることを示せば、出世できるはずだ」と思いがちです。また、出世できずに くさる場合も、その理由のほとんどは、「自分は有能なのに なぜ出世しないのか」というものです。

 しかし、よく読んでいただきたいのですが、出世の条件として、「有能な人間ではなくて、有用な人間、有益な人間であること」と書いてあるのです。

 要するに、その人の個人的能力がいくら高くても、組織のなかでプラスにならなければ駄目なのです。組織というものは、その能力自慢のためにあるものではないのです。」(『経営入門』P-94~95)

 学歴が高く、資格を豊富に持ち、語学に堪能であつたとしても、上司から頼まれた仕事をこなさなければ、有能であっても有用ではない。「簿記の資格があるから営業はしない」「英語が得意だから雑用は請け負わない」という姿勢では、上司からは「使えない」と判断されることになりかねない。

 上司と部下の関係だけでなく、会社と顧客とのでも同様である。「わが社の技術はすごい」と言っても、それが顧客のニーズを満たすものでなければ「使えない」ということになって、注文につながらないのです。

 同期より昇進が遅れたとき、悠々として生きていれば昇進の時期は早まるが、余計なサイドワークをすると、ますます昇進が遅れることになる。

 かめのなかに一滴一滴と雫をためていくような気持ちで蓄積して頑張っていると、自分の力で道は開ける。みずから光を放っているような人を世の中の人は捨てておかない。

 自分に光が当たらない場合には、「まだ時期が来ていない」と思ってさらに自分を磨いていくことが人生の秘訣である。

 大川隆法総裁は、『リーダーに贈る「必勝の戦略」』で以下のように説かれました。

「「もう少しでうまくいくときに、変なことをしてしまう」ということは、よくあります。人事での昇進などでもそうです。
 Aさんのことを、上司は、「この人を課長にしなければいけない。次の人事異動は四月なので、四月になったら、この人を課長にしよう」と考えているとします。
 ところが、Aさんと同期のBさんが前年の十月に課長になっているとすると、Aさんは、自分の昇進が遅れたことが非常に苦しいのです。Aさんは、先に昇進した同僚のことを悪く言い出します。その話がだんだん上司の耳に入ってきます。上司は、「A君はB君の悪口ばかり言っている。ああいう人物を課長にしてよいのかどうか。ちょっと問題があるかもしれないから、もう半年待ってみよう」と考えます。その結果、また昇進が遅れます。
 そうすると、その間、またいろいろと自分で動き回って、墓穴を掘っていきます。こういう人は非常に多くいます。確率的に見て、ほんとうに多いのです。こうした人は時が見えていないのです。
 「分からないということは罪になることがある」と、みなさんは知らなければいけません。分からないということは、他の人の責任ではなく、自分の責任です。そのため、認識力を高めていく必要があるのです。
 同期の人より昇進が遅れたときに、悠々として生きていれば、上司は、「あんな大人物だったのか。それをきちんと遇さなかったのは申し訳ない」と思い、かえって昇進の時期が早まります。
 ところが、上司が「何とかしよう」と考えているのに、余計な“サイドワーク”をすると、ますます昇進が遅れることになるのです。
 「石の上にも三年」ではありませんが、とにかく、力を蓄えながら、甕(かめ)のなかに一滴一滴と雫をためていくような気持ちでもって、内部に蓄積をして頑張っている人は、やがて道が開けることになります。
 そうした人は、自分の力でも道は開けるのですが、他の人が放っておきません。みずから光を放っているような人を、世の中の人は捨てておかないのです。世の中には、「何かチャンスがあれば、引き上げてやろう。道を開いてやろう」と思って、みなさんを見ている人が、幾らでもいます。ところが、そういう人たちが“釣り糸”を垂れているのに、その針に引っかかってこない人、自分で右往左往して駄目になっていく人が多いのです。
 こういうときに、やはり、みずから金剛石の光を放っていくことが大事です。自分に光が当たらない場合には、「まだ時期が来ていない」と思って、さらに自分を磨いていくことが人生の秘訣なのです。
 五年も十年も自分を磨いている人を、ほかの人が放っておくことは絶対にありません。実際は、「そこまで持ちこたえるだけの器量がない」ということです。そして、「持ちこたえる器量がない」ということは、すなわち、「その人が成功しなくても、やむをえない」ということを意味しているのです。この辺を考えていただきたいと思います。」
(146~150ページ)

 

管理能力を身につける

 「人が見えるための能力」(=管理能力)を身につけるには、経験的な方法、人生の師を見つけること、多くの書物を読むことがある。

 書物のなかでも特に大事なものは、伝記物、歴史物、詩を含む文学、そして宗教書である。

 管理職となっていくには、これらの学びによって人の心に精通するための努力を惜しんではならない。

「出世の条件の三番目を充分に習得するためには、人間学の研究が不可欠となります。
 人間学の研究方法の基礎はいくつかあります。一つ目は、人間に関する見識を、自分自身が多くの人のあいだで練られて身につけるという、経験的な方法です。二つ目は、人生の師ともいうべき人を、いち早く見つけるということです。そうした人を見つけて、その人の的確な洞察力や観察力、直観力を学ぶことです。そして、どのように世の中や他人を見るかという見識を学ぶことです。三つ目は、やや常識に属することですが、多くの書物を読むということです。
 書物のなかでも特に大事なものがあります。一つは、偉人たちの生涯を書いた伝記物です。これは出世のためには不可欠のバイブルともいえましょう。次に必要なのは歴史物です。過去の歴史を知っているというのは、未来が分かるということにもなります。
 「過去の歴史のなかで、どのような事件が起きてきたのか。それに対して、偉人や他の人たちがどのように対処してきたのか。そして、その結果どうなってきたのか」ということを学ぶことは、未来において、自分を取り巻くさまざまな環境下で起きる事件がどうなっていくのかを予見する能力になります。
 これは、大学受験などをするときに、受験校の過去の問題を研究するのとまったく同じことなのです。人類史において過去に起きたことを学ぶことによって、未来を予見する能力を磨くことが大切です。
 一に伝記、二に歴史と言いました。三番目に必要なものは、詩を含めた文学でしょう。
 人間の心は何によって揺さぶられるのか、ということを知っておく必要があります。知性によって動く人あり、理性によって動く人あり、さまざまな条件下で人は動きますが、人がいちばん動きやすいのは、なんといっても感性です。感性に訴えることがなければ、大量の人を動員することは難しいのです。感性に訴えるのは非常に大きなことです。
 感性を磨くためには、文学作品や芸術作品への関心を忘れてはなりません。何が人の心を動かすのか、心を打つのか、胸を打つのかを知っておくことです。
 そして四番目に、これが最後ということではなく、ある意味において筆頭にあげなければならないものが宗教書でしょう。これは文学書よりもさらに奥にあるものです。仏の心、神の心を説く宗教書を読んでおくことによって、自分の心の底に、揺れない不動の中心軸というものができてきます。それが、さまざまな困難のときに、その困難を乗り越えていく力となります。
 このように、管理職となっていくには、人の心に精通するための努力を惜しんではならないのです。」
(94~97ページ)

 「人生の勝負に勝つ」という考え方は、競争社会がなぜあるのか、そこで私たちはどう考え行動していくのがよいのか、という根本的な問題に迫っていくものではないでしょうか。

 総裁は、『常勝の法』で以下のように説かれました。

「まず言えることは、「人生は勝負の連続である」ということです。
 人生において、大きな転機というものは何回かしかないかもしれませんが、細かく見れば、やはり毎日毎日が勝負なのです。「きょう一日が勝利するかどうか」ということです。
 その毎日の連続体が人生であり、大勢の人々の人生が交錯しているのが、この実社会なのです。そういう見方が必要だと思います。
 そして、「勝負には相手があり、勝つ者と負ける者がある」 という考えも当然ありますが、各人が自分の人生に勝つことで、両者が共に勝って生きていくということもあるわけです。
 たとえば、会社のような組織体のなかで、ある人が勝つということは、単にライバルとの関係だけで見れば、その人が、他の人よりも出世が早かったり給料が上がったりすることかもしれません。しかし、会社のなかで、そういう人が増えていくということは、トータルでは、企業体として外部の会社に勝つことを意味するのです。
 「お互いに出し抜いてはいけない。他の人より、よい発明をしたり、よい仕事をしたりしてはいけない。みんなが同じでなければいけない」というように考えて、会社のなかで勝つ人が出ないようにするということはありえます。しかし、「勝ちもないが、負けもない」という状態は、ある意味では全員が負けているのかもしれません。
 そういう、全員が負けているような共同体をつくった場合には、外部との戦いでは敗れます。だれも不幸にならないようにしたつもりが、結果において、外との競争に敗れて会社がつぶれ、全員が敗北者になるということがあるのです。
 したがって、同僚や先輩から煙たがられるようであっても、優れた発明や発見をしたり、優れた提案をしたり、新しい仕事をつくり出したりする、優秀な人、傑出した人がいてくれたほうがよいのです。その結果、まわりの人が負けているように見えても、実は、企業体としての勝利になることがあります。その人が勝つことによって、ほかの人たちは、負けているかに見えて、実際には他社との競争における勝利の分配を一緒に受けているのです。」
(106~108ページ)

 

 世の中に害毒を流すような志は持つべきではない。

 与えられた寿命のなかで、天賦の才能を最大限に発揮して満足のいく生き方をし、同時に社会や国家、世界にとってプラスとなるために、ユートピア建設のために、少しなりとも貢献したいという志を持つべきである。

 人を蹴落としてでもとにかく実現していくというような自己実現は表側の世界ではない。

 大川隆法総裁は、『常勝の法』で以下のように説かれました。

「立志の段階において、世の中に害毒を流すような志は持つべきではありません。まず、「今生、この世に命をうけた以上、自分に与えられた寿命のなかで、天賦の才能を最大限に発揮して、自分として満足のいくような生き方をしたい。同時に、社会や国家、そして世界にとってプラスとなるために、ユートピア建設のために、少しなりとも貢献したい」という志を持つべきです。
 全世界を変えるような仕事は、なかなかできないでしょうが、「ユートピアの大河のなかに、少なくともバケツ一杯の水を注ぐぐらいの仕事はしたい」という志を持つべきだと思います。
 ただ、この志の部分が違っていても出世する人はいるので、二種類の志がありえます。
 そして、いま述べたような志というのは、どちらかといえば、古典的というか、古い時代の考え方であると思われがちです。「それは、昔、道徳や修身で、あるいは歴史の物語で聞いたことがあるけれども、現代では、はやらない考え方だ。現代は享楽主義の世の中だから、いかにおもしろおかしく生きるかが大事なのだ」と考える人もいるでしょう。
 しかし、人類普遍の原理というものはあり、それは、死んでからのちに、はっきりと分かることなのです。
 人生は、大きく言えば、「プラスの人生を生きたか、マイナスの人生を生きたか」という二つしかないのであって、この方向性そのものを間違った場合には、取り返しがつきません。
 悪の人生を生きる場合、その人の権力や財力が増せば増すほど、あるいは地位等が高くなればなるほど、悪いことができます。そのため、よけいに大きな罪を犯すこともありうるのです。
 また、世の中にある成功法には、仙人系の霊人が指導しているものが数多くあります。そういう成功法について、本を書いたり、指導をしたりしている人は、霊界の裏側の仙人・天狗系統の指導を受けていることが多いのです。「人を蹴落としてでも、とにかく実現していく」ということを、法則性として教えるところが多いのですが、それはやはり表側の世界ではありません。法則は法則として働きますが、やはり、正しいものの見方をしていかなければならないと思います。
 これが「立志」ということです。」(28~30ページ)


他人を通じて事業を運営し、成果をあげる

 自分ひとりでできる能力と他の人を使う能力の二つの能力を知って使い分けること。

 そして、最初は自分ひとりでできるという能力からスタートしても、しだいに他の人を使う能力のほうに比重を移していくこと。それが出世の条件である。

「個人としては非常に優秀であっても、結果的に成功を収めることができない人は、他の人を通じて仕事をすることができない人であることが多いのです。セールスマンのような仕事をさせれば、人目を驚かすような結果を出す人でも、部下を使えばうまくいかないことは、いくらでもあります。
 それは、自分ひとりでできる仕事というのは、その人がいかに器用であるかを証明しているかもしれないけれども、手先の器用さは人使いの器用さには通じないということなのです。
 たとえ日曜大工としてよい腕を持っている人でも、巨大なビルディングを建てることができるわけではありません。日曜大工で犬小屋を作ったり、あるいは、ペンキを塗ったり、屋根を修理したりすることができる人でも、それほど器用な人だから大ビルディングが建てられるかといえば、建てられません。
 大ビルディングを建てるためには、チームを組み、設計図を作り、計画をし、資金を集め、そして大勢の人を使わなければなりません。そうすると、人を使える能力が必要になってきます。
 つまり、出世の条件として三番目に明確に言えるのは、自分ひとりでできる能力と、他の人を使う能力の二つの能力を知って、それを使い分けるということです。そして、自分個人でできるという能力から、他の人を使ってできるという能力に、次第しだいに比重を移していくことが大事なのです。
 大ナポレオンがいかに優れた人であったとしても、彼が軍刀を持って百人の兵士と戦ったならば、おそらく負けるでしょう。十人の兵士と戦っても負けるでしょう。彼ひとりの力で戦うには、相手が一人か二人、あるいは三人ぐらいでなければ無理です。それ以上では勝てません。ところが、彼が一万の兵、あるいは十万の兵を率いたならば、無敵の大将軍になることができるのです。
 この違いが分からない人は、出世には緑の遠い人だと思わなければなりません。こうした違いが分からずに、手先の器用さがすべてだと思う人は、専門職にとどまって、職人かたぎの人生を送ることになります。
 すなわち、真に出世をしていこうとするならば、スタートラインでは自分個人の力量に依存することが多いけれども、個人の能力でやっているあいだに、次第しだいに人心の掌握力を増していき、どうすれば人を使って仕事ができるかということを考えていく必要があるのです。これを管理能力といいます。
 管理能力の基礎は人が見えるということです。それは、その人の長所と短所が見えるということです。また、その人を適材適所として使っていくためには、どういうところに配置すれば能力を発揮し、どういうところに配置すれば能力が発揮できないかということを知ることです。当の本人が分からないことを、本人の素質を見抜いて、いち早く判断することです。この能力が不可欠です。」
(91~94ページ)

「経営者になるためには、当然人を使えなければなりません。しかし、他の人の力を使うというのは、そう簡単に出来ることではありません。これは、才能や徳、器など、さまざまなものの総合力であり、誰かが明確に教えてくれるというものではないのです。ただ、事業というものは、他の人の力を使わないと大きくはなりません。」(『経営入門』P-97)

 経営の定義とは、「他人を通じて事業を運営し、成果をあげること」である。

 実際に人を使うには、仕事そのものをつくり出す能力が必要となるほか、適材適所を見極めて仕事を割り振り、各人にその任務を遂行してもらえるよう説得する力もいる。仕事のやり方を教える必要もあれば、進捗を管理することも求められる。「他の人の力を使う」と一口に言っても、その内容は多岐にわたり、簡単なことではない。まさに「総合力」なのである。

「人が使えるようになるためには、やはり、自己の能力の天井を上げる以外ないので、企業のトップは、いつも自己の天井を上げるために研鑽しなければならないのです。

 実は、社員研修するよりは、社長が自分で研修を受けたほうが効果は大きいのです。社員研修にいくら費用を出したところで、実際に何を学んでくるかは分かりません。ところが、社長自身が学び、つかんだものが何かあれば、それは確実にプラスとなり、経営に生きてきます。

 立場が上の人ほど学びの効果は大きいのです。社長が自分の能力の天井を上げなければ、組織全体がアップすることはないのです。」(『経営入門』P-98)

 部下を1人も使えない人、3人までしか使えない人、10人でも20人でも使える人と、「他の人の力を使う」能力には かなりの幅がある。

 経営者には上司がいない以上、自分の能力は自分で高めていくしかない。

 組織の発展が止まった場合、その理由は社長の能力の限界が理由であることが多い。したがって、経営者には自己教育の習慣が不可欠となる。

 

徳を積んでいく

 「強きをくじき、弱きを助ける」というタイプの人は、一時期トップに立つことがあったとしても、やがては同じタイプの人が出てくることによって敗れ去っていくものである。

 そういう方は、それだけの実力があるでしょうから、その実力を本当の意味で発揮することで、多くの人を幸せにしていただきたいものです。

 そのためにも、仏の愛は弱い者にも強い者にも平等に注がれていると知ること。そして、自分より立場が上の人たちに対しては、もっと素晴らしくなってほしいと願う情熱をもつこと。

 そうして徳を積んでいくことで、自分の立場も上がって行ってトータルな成功ができるように心がけるのが成功への王道である。

 大川隆法総裁は、『幸福の革命』で以下のように説かれました。

「人間は、自分ひとりの力だけでは絶対に出世できません。出世するためには、他の人の力が必要です。
 自分の努力や才能だけでは、道は開けません。下からの「押し」と上からの「引き」の両方がないと成功できないのです。
 下からの押しを得るには、常日ごろ、人の面倒をよくみることが大切です。
 また、上からの引きにおいては、「上の人によって、自分は常に推し量られている」ということを知らねばなりません。上の人はいつも、下の人たちの雅量、器量を推し量っているのです。
 そして、ほんとうに成功していくためには、上からの引きが不可欠です。下からの押しだけでは偉くなれません。
 なかには、義侠肌で、「強きをくじき、弱きを助ける」というタイプの人が、乱世の英雄のように、彗星のごとく出てくることもあります。
 ただ、こうした人は、自分と同じタイプの人が出てくることによって、やがて敗れ去るのです。
 上の人を尊敬せず、追い落としてトップの座についた者は、自分と同じように野心を持つ者によって、必ず遠ざけられることになっていきます。なぜなら、その人に徳がないからです。
 結局、真に成功するためには、徳ある人間として、上からも下からも愛されなければならないのです。
 部長が失脚することを部内の人たちが願っているならば、その部はどうなるでしょうか。
 社長が失敗して辞めることを社員たちが喜ぶような会社は、いったいどうなるでしょうか。
 そうしたことを考えてみれば分かるはずです。
 下の人には、「上の人がもっと素晴らしくなってほしい」と願う情熱が必要です。こうした気持ちがなければ、全体がよくなることはありません。
 自分より上にいる者をすべて退け、自分がトップに座ることがほんとうの成功かといえば、そうではありません。累々たるしかばねの上に座っても、座り心地は決してよくないのです。
 仏の愛は、弱い者にも強い者にも平等に注がれています。
 弱い者に対しては、弱気から立ち直り、立派な人間になっていけるよう、仏は常に励ましています。
 一方、強い者に対しては、「その才能をもっと磨き、その力を増して、より多くの人の幸福のために活躍せよ」と仏は願っています。
 弱い者と強い者、この両者への愛を包括していかなければ、真の意味で、トータルな成功を得ることは決してないのです。」

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