組織人として成功するために

 部下を愛せよ。そのために、部下の持つよいところを伸ばしてやり、悪いところがあったら注意をするという当たり前のことをせよ。その際に、部下の才能に嫉妬せず その才能を愛せよ。

 幸福の科学大川隆法総裁は、『成功の法』で以下のように説かれました。

「「上司を尊敬する」ということの反面とも言えますが、「部下を愛する」ということなくして成功する人もまたいません。一時的に、そういう現象が起きたとしても、その人は、やがて、必ず、人々の信を失い、長たる資格を失っていくことになります。
 では、「部下を愛する」とは、どういうことか、分かるでしょうか。それは、「その人の持つ、よいところを伸ばしてやる」ということ、また、「悪いところがあったら注意をする」ということです。
 部下というのは、たまたまの巡り合わせで来ることもありますが、上司は、自分の部下を、人間的にも立派になるように、将来、仕事で一人前になって立っていけるように、さらに、高い立場に立ってもやっていけるようにしていくことが大事です。
 この際に、いちばん気をつけなければならないことは、「部下の才能に嫉妬してはならない」ということです。
 優秀な部下が来たときに、ともすれば、その部下に嫉妬しがちな人がいます。「何とかして足を引っ張ってみたい。ケチをつけてみたい」という気持ちを持つ人もいます。
 しかし、そういう気持ちでいては、その部下が出世できないことは当然のことですが、そのような評価を下すあなた自身も、そこで出世が止まることになるのです。
 ほんとうに偉くなっていく人というのは、「才能を愛する」という傾向を持っています。自分にない才能を持っている人を愛し、自分にない素晴らしい面がある人を愛し、そして、育てていこうとする気持ちがあります。
 「部下を愛する」という気持ちは、実は、「自分とは違った個性である部下を、その個性のままに伸ばしていきたい」という気持ちを持つことをも意味しています。むしろ、自分より優れた人物を配下において、それを自慢にするぐらいの高い心境にならなければいけないということです。そのくらいの心境になって初めて、その人も出世していけるのだと私は思います。
 上司が部下を愛さなければ、いったい誰が、その上司を支えてくれるのでしょうか。人間は、自分一人の力で偉くなれるものではなく、やはり、人に担(かつ)がれて偉くなるものなのです。人に押し上げられて偉くなるのです。信任されて偉くなるのです。その無言の雰囲気が、実は、出世の力となっていくのです。
 したがって、「あなたの下で働けてよかった」と言われるような、あなたとならなければいけません。
 この際に、自分より年若い者のなかに、自分より優れたものを見いだしたとしても、それをほめられるような、それを育てられるような、そういう心境になってください。そうしなければ、あなた自身が、よりいっそう向上するということはないのです。精神的な高みに上がるということはないのです。」
(122~126ページ)

 常に工夫をすること。それも、自分自身で工夫を重ねるだけでなく、常にアンテナを張って、日常の仕事の中で他の人から学んでいって、仕事を向上させようとする努力をすることである。

「それは、「常に工夫をする」ということです。
 これは、話としては簡単なことでしょう。しかしながら、実際、どのような仕事であっても、それを任されると、だんだんマンネリ化していくのが人の常です。
 一年たち、二年たち、周りの人が、新鮮さを失い、惰性に陥り、仕事以外のことに情熱を燃やしはじめたときに、踏みとどまって、常に工夫をすることを忘れない人がいたら、その人は、それだけで、組織のなかにおいて一人の偉人たることをやめない存在であると思います。
 常に工夫をする人が一人いれば、その工夫によって、いろいろなことがよくなることは当然ですが、その人がそういう精神状態で生きているということ自体が、他の人にとって、たいへん強力なカンフル剤となるのです。
 工夫を怠らない人がいると、周りの人も、常に工夫を怠らないようになっていきます。よいことも、やはり伝染していくのです。
 さらに、自分独自の仕事をするだけではなくて、「他の人から学んでいく」ということも大切です。
 私も、ビジネス社会において、いろいろな人を見てきましたが、自分の仕事だけに没頭している人には、それほど優秀な人はいなかったように思います。自分が電話をしたりして仕事をしているときにも、他の人が話をしたり電話をしたりしている内容にまで、アンテナを張って聴いているような人のなかに、優秀な人は多かったように思います。
 「自分のことにしか目が行かない」というのではなくて、「他の人の仕事ぶりを見、他の人の話し方を聴き、いろいろな情報を常に敏感に察知して、そのなかに、自分に工夫すべきことがあれば、取り入れていく」という考え方が大事です。
 「電話のかけ方一つを取っても、他の人の話し方のなかに素晴らしいものがあれば、それを取り入れていく」という努力をしている人は、それだけでも、しだいに非凡になっていきます。
 また、「他の人の判断の仕方や発想の出し方についても、常に学んでいって、自分のなかに取り入れていく」という努力をしていると、やがて、それが適当にブレンドされ、自分独自のものが出てくるのです。
 「目で見、耳で聴く」という努力です。目には両眼がありますが、これは、自分の机の上に注がれているだけでよいのではなく、他の人にも注がれるべきものなのです。耳もまたそうです。耳は、他の人のいろいろな話を聴くためにもあるのです。
 そのように、常に何かを工夫して、仕事を向上させようとする努力が大事です。」
(『成功の法』137~142ページ)

 

成功しているとき

 みずからが成功する過程において、自分一人の成功にしないように心がけること。

 自我我欲を抑えて、ほかの人の成功を願い、お手伝いをしてあげたり、引き上げてあげたり、成功のノウハウを分けてあげたりすること。他の人の成功を祝福することです。

 大川隆法総裁は、『希望の法』で以下のように説かれました。

「みずからが成功する過程において、「自分一人の成功にしない」ということは、極めて大事なことです。
 一生懸命に働いているのに、まったく他の人々から認められず、尊敬もされないのでは、辛いでしょうし、やる気もでないでしょう。何十年も働いていくためには、出世意欲を持つことは、よいことだと思います。ただ、課長や部長、役員になっていく過程のなかで、仕事や、自分の志の全部を、「自分の成功」という一点に絞りすぎないことが大事です。
 たとえば、自分が部長になる過程で、ほかの人に対して、その人の成功のために、仕事のお手伝いをしてあげたり、引き上げてあげたり、自分の成功のノウハウを分けてあげたりするのです。
 成功の流れのなかにある人は、ほかの人から、かなり、うらやましがられたり嫉妬されたりするものです。
 それは、ある程度は、しかたがないことです。ただ、嫉妬される立場になった場合には、「他の人のために生きたい」という気持ちを常に持っておくことが大切です。それを外に出す必要はありませんが、常に心のなかに持っておくのです。
 また、他の人が自分より大きな成功をしたときには、自分のほうにも競争心や嫉妬心が出てきたりしますが、それを、極力、抑えることです。そして、自分の思いに反するとしても、その成功をほめてあげることです。「素晴らしいですね」と祝福してあげるのです。
 たとえば、他の会社が自分の会社よりも、どんどん大きくなっていったときには、「あそこは、たまたま、うまいことをやって成功した」などと言わずに、「素晴らしい成功ですね。わが社も、できれば、そのようになりたいと思っております」と言える気持ちを持ったほうがよいのです。
 「人を呪わば穴二つ」という言葉があります。人の不幸や失敗を願うと、その貧しい心が、結局は自分のほうにも失敗を引き寄せてしまうのです。
 みなさんも、人の失敗を願っている人を、それほど、応援したり、支持したり、担いだりしたくないでしょう。むしろ、人の幸福を願っている人を担ぎたいでしょう。それと同じことです。
 「その会社が成功すれば、ほかの会社がみな不幸になる」というような会社は嫌なものです。会社が大きくなってもよいのですが、「産業界全体のために頑張りたい。この産業で頑張ることによって、できるだけ国全体や世界に潤いを与えたい」という気持ちを持っていることが、成功を続けるための条件なのです。
 「ほかの人の成功を願う」ということは、お人好しに見える面もあるのですが、自我我欲を、目一杯、出しきるのではなく、それを抑えることによって、実際は、多くの人々の支持を受けることになり、実りの大きな幸福や成功を得ることができるのです。」

 

 「自分に能力がなくても、まわりに有能な人を集めれば成功できる」というのは謙遜の言葉である。その言葉を語った偉人の能力がほんとうに低かったわけではない。能力の高い人を生かしきるためには、それだけの智慧や努力、システムも必要である。上に立とうとする者は光明思想を甘えの論理に使ってはならない。

 大川隆法総裁は、『常勝の法』で以下のように説かれました。

「「自分に能力がなくても、自分のまわりに能力のある人を集めれば、よい仕事ができる」という考え方があります。これは鉄鋼王のアンドリュー・カーネギーが実践した考え方であり、彼は自分の墓碑銘にもそうした意味の言葉を刻んでいます。
 「自分には能力がなかったが、まわりに有能な人を集めたので成功した」というのは、確かに謙遜(けんそん)の言葉としてはよいと思います。ただ、当時はいまほど学校教育が発達していなかったので、優秀な人であっても、よい学校を卒業していないことがよくありました。彼がよい学校を卒業していないのは、チャンスを得られなかっただけであり、能力が低かったわけではないのです。
 彼の謙遜の言葉を、「どんな人でも、能力の高い人を使えるのだ」という意味に取ったならば、それは間違いになります。やはり、そう簡単に人を使えるものではありません。能力の高い人を生かしきるためには、それだけの智慧が必要です。また、努力も必要ですし、システムも必要です。
 勇気の原理として光明思想的に使える考え方が、ある程度以上の規模のものにおいては、甘えの論理になったり、無責任の論理になったりすることもあるのです。上に立つ者は、このことを厳しく受け止めなければいけません。
 人間は、自分の能力、蓄積、努力、それから、自分を支えるものの力、総合力、天の時、地の利など、いろいろなものを見定めていかなければならないのです。」

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