適材適所

 

念い がすべてであり、人は自分が思っているとおりの存在になれる。これは人生の真実だが、人は自分の適性がある分野で活躍するのが幸福なのも真実。

 自分に適性がまったくなさそうな分野に願いを持ってみても、本当に適性がなければ、そう長く思い続けることはできないのでしょう。

 幸福の科学大川隆法総裁は、『仏陀再誕』で以下のように説かれました。

「また、あなたがたは適材適所という言葉を聞いたであろう。
適材適所ということは、その人の器、その人の才能、その人の能力に合った立場につけるということだ。
この適材適所という考えが、なかなかわからなく、また、なかなか肯定しがたいことのように思われるかもしれない。
その多くは、欲望が強いがために、自ら自身を正しく評価できないことにある。
人は、その器相応に使われてこそ、はじめて喜びを得るのだという事実を知らなければならない。
鋸(のこぎり)には鋸の幸福がある。
鉋(かんな)には鉋の幸福がある。
鑿(のみ)には鑿の幸福がある。
それを忘れてはならない。
鋸(のこぎり)は木を挽(ひ)くのに役に立つであろう。
木を上手に挽くのは鋸(のこぎり)の喜びであろう。
しかし、木を平らかにするのは鉋(かんな)の喜びであろう。
また、木に溝をつけるのは鑿(のみ)の喜びであろう。
この鋸(のこぎり)と鉋(かんな)と鑿(のみ)という違ったものは、それぞれが貴いのだ。
それぞれが貴く、どれも無くてはならないものなのだ。
なのに、世の人びとが鋸(のこぎり)こそ素晴らしいと言えば、だれもかれもが鋸(のこぎり)になろうとする。
世の人びとが鉋(かんな)こそ素晴らしいと言えば、こぞってみんな鉋(かんな)になろうとする。
しかし、世の中にはいろいろな人がいて、それぞれの持ち場で働いているからこそ、世の中がますますよくなってゆくのだ。
あなたがたは、ともすれば、目立つ鋸(のこぎり)という仕事を目標とするかもしれない。
しかし、鋸(のこぎり)の役割ができるためには、大きな力がなければならない。
大胆で、決断力に富み、迅速で、そして仕事が速くなくてはならないだろう。
そうした性格の人は、鋸(のこぎり)の役割を担うのがよい。
しかし、一方では、几帳面でサービス精神に富み、そして多くの方がたに気配りができるような人がいるであろう。
こうした方がたは、鋸(のこぎり)という役割は必ずしもその性分には合わないのだ。
そういう人びとは鉋(かんな)としていかに艶(つや)を出すか、いかに滑(なめ)らかに仕上げるかということを努力すればよい。
それが、本来の自己を生かす道であるのだ。
また、専門的にのみ生きている人もいるであろう。
狭く、細く、しかし力強い仕事をしたいと願う人もいるであろう。
これは、鑿(のみ)の仕事であろう。
小さなところを削り、彫り、そして役に立つ。
これが鑿(のみ)の仕事だ。
こうした専門的な仕事を軽蔑する人もなかにはいるかもしれない。
あるいはそうした仕事についていて、自ら自嘲的になっている人もいるかもしれない。
しかし、このような仕事はあるのだ。
鋸(のこぎり)によってしては、ほぞをつくることは難しい。
鉋(かんな)によっても、ほぞをつくることは難しい。
鑿(のみ)によってこそ、ほぞはつくることができるのだ。
このように、それぞれ適材適所ということがあることを忘れてはならない。
さすれば、ある者は社長となり、より多くの困難、波風に遭うかもしれないが、その社長業を、自らがこなさなければ、幸福でないと思うのは間違いかもしれない。
地位の上にある人、下にある人、それはあくまでもこの世的なる序列であって、それが真実の仏の序列ではない。
それぞれ、適材適所ということが実現されてはじめてすべてのものがよくなってくるのだ。
決して、欲望の自由を満たすことが、素晴らしいことではないのだ。
みんなが社長になりたいからといって、すべての人を社長にしていては、その会社に働く人たちは、次つぎと失業して、そして大いなる苦難をなめるであろう。
社長になるべき器があってこその社長であるのだ、ということを知りなさい。
さすれば、自らの分相応(ぶんそうおう)に生きていることを決して悔いてはならない。
もちろん、経営する立場に立つ者は、人事は公平にしなくてはならないであろう。
また、雇われる側にあっても、公平な処遇をされることを願うことは正しいことであろう。
しかし、どうか私の語った鋸(のこぎり)、鉋(かんな)、鑿(のみ)の例を思い出してほしい。
それぞれの持ち場に使われてこそ、役に立つのであり、そして喜びがあるのだということだ。
間違った場所で使われて、真の喜びはないということなのだ。
このことを、よく知りなさい。」
(177~184ページ)

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