限界突破できないとき

 限界というものは自分が原因をつくり出している。

 その限界を画するものは、他の人々の客観的な評価である。一生懸命に努力しているのに道が開けないときには、客観的な目も持ってみる必要がある。

 幸福の科学大川隆法総裁は、『幸福の法』で以下のように説かれました。

「限界というものは、ほんとうは自分が原因をつくり出してはいるのですが、その限界を画するものは、実は他の人々の客観的な評価なのです。この世的には競争の結果かもしれませんが、人々の客観的な評価によって、超えられない部分が出てきているのです。
 したがって、「一生懸命に努力しているのに、道が開けない」と思うときには、客観的な目も持ってみる必要があります。」

 悩みや苦しみのなかに、実は無限の発展の可能性が宿されている。失敗のなかには、次の創造の芽、発展の芽が必ず隠されている。

 自分では「もう限界だ」と思っても、その限界の次が出てくる。不思議なことに、自分の限界を認識すると、その限界が突破できる。

 自己認識の変容、拡大、発展こそが、魂の成長であり、この自己認識の変容こそが、実は悟りの正体である。

「人生には悩みや苦しみはたくさんあるでしょうが、それは実際、とてもありがたいことだと思っていただきたいのです。そのありがたさをしみじみと分かる必要があります。
 悩みがないということは、また、発展性もないことを意味します。みなさんが持っている悩みのなかには、解決がつかないものも、おそらくあるでしょうが、実は、そのなかに無限の発展の可能性が宿されているのです。
 失敗の多い人生を悔やむ必要はありません。失敗のなかには、次の創造の芽、発展の芽が、必ず隠されているものです。
 この自己認識の変容、拡大、発展こそが、実は魂の成長なのです。この自己認識の変化こそが、実は魂としての成功であり、それを得るために、肉体を持って、この世に生まれ、赤ん坊から何十年もかけて大きくなり、年を取って死んでいくのです。
 「自己認識の変容こそが、実は悟りの正体である」ということを知らなくてはいけません。
 私自身も、自己認識の変容をずいぶん経験しました。
 私は1985年から霊言集を出しはじめましたが、『日蓮の霊言』『空海の霊言』『キリストの霊言』(現在、『大川隆法霊言全集』〔宗教法人幸福の科学刊〕の第1巻~第6巻として刊行)と、三冊ぐらいを出したあたりで、「もう充分かな」という感じがしたのを覚えています。「もう充分な仕事をして、使命は果たしたのではないか」という感じを受けたのです。
 当時は、その後もこれほど営々と働くことになるとは予想していませんでした。しかし、それで終わりにはならず、「終わった」と思ったら、さらに次から次へと仕事が出てきて、終わらないのです。
 自分では「もう限界だ」と思っても、その限界の次が出てきます。不思議なことに、自分の限界を認識すると、その限界が突破できるのです。まことに不思議なのですが、「自分の能力としては、このあたりが限界で、これ以上は、もうできない。失敗もずいぶんしたし、これ以上は無理だ」と思ったあとに、だいたい限界突破をするのです。
 そこまで行かなければ限界は突破できないということなのでしょうが、苦しみはじめて、最後に、「何かもっとほかに方法がないか。考え方がないか」と、ウンウン言って考えていると、出てくるのです。」
(53~56ページ)

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