能力には限界があるのに無限に成長できる

 人間の成長の度合い、角度は、人によって違う。その成長の角度は、その人の才能であり器でもあって、そこに限界はある。

 しかし、それぞれが、その角度での成長を続けていくことで、成長は無限である。

 したがって、「人間の器や能力には限りがある」という教えと、「人間の成長は無限である」という教えは、矛盾するどころか、統合できる。

 幸福の科学大川隆法総裁は、『希望の法』で以下のように説かれました。

「人間が成長するときの角度、成長度を考えると、みな、だいたい、生まれたときと比べれば、プラスのほうで成長してはいます。ただ、その成長の度合い、角度は、人によって、みな違うのです。
 六十度の成長度を持っている人と、四十五度の成長度を持っている人と、三十度の成長度を持っている人を、同じ場所に同時に置いて、同じ課題、同じ仕事、同じ勉強などをやらせたならば、どうなるでしょうか。六十度の人は角度が大きいので、数学をやっても、英語をやっても、スーッと勉強は進んでいきます。四十五度の人は、それより少し遅くなります。三十度の人は、もっと遅くなります。それだけを取ってみると、優劣は明らかです。
 個人個人を見てみると、確かに、成長度は、その人の能力でもあり、才能でもあり、器でもあります。「六十度、四十五度、三十度といった、成長の角度を、それぞれの人が持っている」という意味において、それぞれの限界はあります。
 ただ、六十度の人は六十度の人で成長を続けていきますし、四十五度の人は四十五度の人で、三十度の人は三十度の人で、それぞれ、成長しつづけます。
 そのように、それぞれの人が、同じ出発点、原点、ゼロのところからスタートして、それぞれの角度で走りつづけると、その速度が同じ場合、到達する地点の差は出てきますが、これは、「実は、そこで終わりにならない」という点が味噌なのです。
 六十度の角度で行く人は、そのまま、一生、ずうっと六十度で上がりつづければ大したものですが、「兎と亀」の兎のように、途中で一服することがあります。「病気になる」「挫折する」「死ぬ」ということもあれば、「家庭生活が難しくなる」「会社がおかしくなる」ということもあります。いろいろなことがあり、失敗などの壁が出てきて、そのままの角度で成長できなくなることがあるのです。
 「『自分は大変な秀才で、よい学校へ行き、よい会社へ入った』と思ったが、会社がなくなってしまった」ということは、現在、数多くあります。「あのままでいけば、自分はかなり出世できただろう」と思っても、会社がなくなってしまうと、個人としては、どうしようもありません。いくら早く部長になっても、それで終わりです。
 一方、三十度の角度の人が、「会社の規模は、六十度の角度の人の会社より小さく、その十分の一ぐらいだが、潰れない」という会社で、ずうっと、三十年、四十年と上がっていけば、どうなるでしょうか。最終的には、六十度の角度で行った人、二倍の角度で上がっていった人より、その半分の、三十度の角度で上がっていった人のほうが、大きな成功を収めることがあるわけです。
 「人の成長の角度に差がある」という点は、能力の差であり、限界ではあるのですが、それぞれの人にとっては、その角度での成長を続けていくことで、成長は無限なのです。そのように、「人間の器や能力には限りがある」という教えと、「人間の成長は無限である」という教えは、矛盾しているようでいて、統合できるものなのです。」
(66~72ページ)

人生と真理 へ

「仏法真理」へ戻る