決断をするために

 悩んでいる場合には、判断材料が不充分なのが原因の場合が多いので、まず、判断の材料を集めること。

 そのときには、枝葉を取り除き、幹のところ、判断の核心となる部分を集めるように努めること。

 そして、いったん判断を下したならば、新たな材料が生じないかぎり、断行すること。

 たとえ苦しい状況、さらには最悪の場合が生じたとしても、人生には再出発が幾らでもありうる。気力があれば、必ずや道は開ける。

 幸福の科学大川隆法総裁は、『感化力』で以下のように説かれました。

「悩みを第三者の目でよく見てみると、その原因は、「現状から結論に至るまでのプロセスがはっきりしていない」ということがほとんどです。判断するための材料が充分ではないのに、結論を出そうとして苦しみ、七転八倒しているわけです。
 したがって、まず、判断の材料が必要になります。結論が出せずに悩んでいるときには、結論を出すための材料を集めなければならないのです。
 判断の材料を集める際の基準は、「決定的な判断をするための材料となるもの」ということです。判断の核心となるものを取り出さなくてはなりません。
 たとえば、「この事業を続けていくべきか」「新規事業をやるか、やらないか」「不採算部門を閉めるべきか」ということなどを判断するとき、そのためのキー(鍵)になる部分、核になる材料は必ずあります。その部分を発見することです。
 判断に迷うときには、ほとんどの場合、枝葉のところで視界がくらまされているので、枝葉を取り除き、幹のところだけを押さえることが大切なのです。
 他の人から相談を受けたときにも、その人の問題の幹と枝葉とを分け、幹の部分、問題の核になる部分を指摘することです。そうすれば、その人の悩みは止まり、あとは選択の問題だけになります。
 「これが、あなたの問題のキーである。この部分に関して、結論はイエスかノーかのどちらかである。現在の状況から言って、あなたはこちらを取るべきだと思うけれども、それは、あなたが自分で判断しなければならない。
 どちらを取るにしても、判断を下したならば、新たな判断材料が生じないかぎり、その判断に忠実にやっていきなさい。もはや迷ってはならず、枝葉の部分を思い出してはならない。結論を選び取ったならば、それで行きなさい。
 そして、たとえ、苦しい状況が一時的に生じようとも、『人生には再出発が幾らでもありうる』ということを忘れてはならない」
 このようにアドバイスすればよいのです。
 経営においては、従業員など、さまざまな人たちの感情を考慮する必要もあるでしょう。
 しかし、判断の中心となる部分を見つけ、結論を出したならば、経営者は、「私は、こう判断するので、ついてきてほしい。ついてくることのできない者は、申し訳ないが去ってほしい」と言えるぐらいでなければならないのです。
 さらには、「最悪の場合、どのような事態が起こるか」ということが予想できるでしょうから、その事態を覚悟することも大切です。
 「最悪の場合、家や土地がなくなることはあっても、生命までは奪われないだろう。家や土地は過去の十年や二十年でつくり上げた財産なのだから、働けばまたつくれるだろう。また、私を責める人だけではなく、私を助けてくれる人も出てくるだろう。
 最悪の場合は、そうなるが、そこからまたスタートを切ればよい。気力があれば道は開けるはずだ」
 そう決意すれば、もはや悩みはなくなります。あとは行動あるのみなのです。」
(209~213ページ)

 決断力は、時々刻々、いろいろな環境のなかにおいて、自分がどう進むかを瞬時に考え、間違っていることが判明したら即座に修正していく力のこと。思慮深いことが、決断力と一致することもあり得る。

 真の決断力とは、難局に際して、快刀乱麻を断つがごとき大局的な判断をし、小局的な判断については、時々刻々に変わる情勢を見ながら、そのつど自分の判断を修正していくもの。

 そこで大事なのは、その源泉に多くの人々への愛があること。いったん決めたことであっても、間違ったと思ったときには、勇気を持って、より多くの人々のために自分の結論を変えていく姿勢であること。

 総裁は、『リーダーに贈る「必勝の戦略」』で以下のように説かれました。

「決断すべきときに決断し、行動すべきときに行動することができない人は、人生の多くの宝を失っているように私は思います。なぜなら、あまりにも考え深すぎることで決断が遅れ、人生の成功を逃すこともあるからです。
 この点において、「人々のリーダーになるべき人は決断が速い」ということが言えると思います。換言すれば、先見の明があるわけです。
 そして、この決断力というものは、決して、「右か、左か」というような単純な決断力ではなく、時々刻々において、いろいろな環境のなかにおいて、自分がどう進むかを瞬時に考え、間違っていることが判明したら即座に修正していく力であろうと思います。
 したがって、決断力という言葉は、思慮深さということと、ある意味において一致することがありうるのです。
 ところが、思慮深いということが決断力と結びつかないで、優柔不断と結びつくことがよくあるように思います。
 真実の決断力とは、「難関、難局に際して、快刀乱麻を断つがごとき判断、大局的な判断をし、また、仕事の流れ、運命の流れにおける、小局的な判断については、時々刻々に変わる情勢を見ながら、そのつど自分の判断を修正していく」というものであろうと思います。
 決断力に関しては、「偉大な人物ほど、自分の非を認めるのに迅速である」ということが言えるでしょう。
 「決断力に富む」という言葉は、「いったん自分が決定したことを決して翻さない」ということを意味しているのではありません。そういう頑固な人格を意味しているのではなくて、「いったん自分が決めたことは、あくまでも貫こうとするが、その貫くときにおいて、『私利私欲はないか。我欲はないか。これがほんとうに多くの人々を生かす道であるのか。これがほんとうに仏の心に合致した行いであるのか』と、常に点検する」ということを意味しているのです。
 したがって、決断力の源泉にあるものは多くの人々への愛です。そのためには、みずからにとって不利な決断もしなければいけないことがあります。それは、「間違った行動をしたと思ったとき、間違った判断をしたと思ったときには、それをさらりと認めてしまう」ということです。
 みなさんも、自分のプライドにこだわって、自分の非、間違いを、なかなか認めたくないことがあるでしょう。また、どのような人であっても、ときには、口を滑らせたり、間違ったことを言ったり、人を傷つけたりすることがあるでしょう。
 そのときに、自分のプライドにとらわれ、そういう小さな自分を護ることに汲々としてはなりません。勇気を持って、より多くの人々のために自分の結論を変えていく姿勢が大事です。これがまた、次の決断力を生んでいく力となるのです。」
(61~64ページ)

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