豊かさと潤い

 幸福の科学大川隆法総裁は、『限りなく優しくあれ』で以下のように説かれました。

「人間は、ともすれば、豊かさというものを忘れがちです。
 桜の花がつぼみを開きはじめるころに、そのほほえみかけるような桜並木の下を通った日の温かい思いが、みなさんの記憶のなかにはあるでしょうか。一日一日が積み重なって一年となりますが、その一年のなかには、とてもとても豊かな一日があるのです。
 それは、何とも言えない感慨です。あえて、それを言葉に置き換えるならば、「自分というものが溶け出し、流れ出して、大自然と一体になったような気持ち」と言ってもよいでしょう。あるいは、「豊かで大きな気持ち、自然を包んでいる大きな心と、一体になっている」という感覚です。これが、実は、豊かさというものと大きくかかわっているのです。
 雨上がりの大自然を思い浮かべてください。
 「池の上の霧が晴れ上がって、太陽の光が射してくる。
 草の葉にたまっていた雨の滴が、一つ、二つと、時間を置いて、池の水に落ちていき、確かな波紋をつくっていく。
 葉の上でキラキラと輝いている水玉。起き抜けのような太陽の光を浴びて、虹色に光っている、その美しい姿。それが、葉の先に集まって大きな玉となり、重みをたたえて葉を下に押し下げ、やがて、ある瞬間に、プルンと葉を震わせて、水滴となって落下し、池に落ちる」
 その輝きの瞬間、私たちは潤いというものを感じます。これは、豊かさとは明らかに別の感覚であって、「潤い」と言うにふさわしい感覚だろうと思います。
 これを別の言葉で言うならば、「一日の生活のなかにある、寂たる時間、静寂なる時間。まるで永遠を感じさせるような、寂々たる時間。その時間を持つ」ということになりましょうか。こうした静寂なる時を持ち、心を静めることが、潤いにつながっていくと私は感じるのです。
 豊かさや潤いを生活のなかに取り込んでいくには、どうすればよいのでしょうか。
 豊かな感覚、また、潤いのある時間――。こうした際に、心は、その扉を開き、無限の彼方へと梯子を伸ばしていくように感じられます。天空に架かる虹のように、夢の梯子を、夢の階を、胸の扉から架けようとしているかに見えます。
 そうです。豊かな時間を生きるためには、大いなる仏、主と、また、主を表現している大自然と、一体にならなくてはなりません。
 大自然の姿の偉大さよ。大自然の豊かな心よ。
 それを見、それを感じ取るときに、「ああ、自分も、豊かなるものと一つになりたい。豊かなるものにつながっていきたい」と願うのは、ごく普通の素直な感情だと言ってよいでしょう。
 このときに、人々は、ためらいもなく、衒(てら)いもなく、祈ることが可能になるのです。」
(121~128ページ)

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