奉仕の心

 利己心だけで生きていると、利己心と利己心がぶつかり合い、争いや過当競争を生み、挫折や失敗を招いて、苦しみの世界をつくってしまう。

 しかし、自分の幸福と社会の幸福は一体であるという考え方を持っている人は、悪を犯すことなどできない。

 自分の幸福と他の人の幸福を貫くものは「奉仕の心」、別の言葉でいえば「愛」である

 幸福の科学大川隆法総裁は、『繁栄の法』で以下のように説かれました。

「この世の社会は、一人だけの幸福など成立しないようになっています。個人の幸福は社会全体の幸福と密接につながっています。
 社会全体が不幸のどん底にあれば、個人も幸福にはなれません。たとえば、大戦争が起きて、国民全体が死の危機に直面しているような環境下では、自分だけが幸福になろうとしても無理でしょう。
 反対に、自分はそれほど努力していなくても、社会全体が好景気で繁栄しているときには、自分もそのおこぼれにあずかることができます。
 ところが、個人としての利己心だけで生きていると、利己心と利己心がぶつかり合い、争いや過当競争を生み、挫折や失敗を招いて、苦しみの世界をつくってしまいます。そして、そこに悪が発生してきます。その原因は、自分のことしか考えていないという単純なことにあります。
 「自分の幸福と社会の幸福は一体である。自分が幸福になることは、社会の幸福とつながっており、社会が幸福になることは、自分が幸福になることと同じなのだ」という考え方を持っている人は、悪を犯すことなどできません。
 これに対して、「自分の幸福は他人の不幸であり、自分の不幸は他人の幸福である。パイの取り合いのように、だれかが幸福になれば、だれかが損をする。自分が幸福になるためには、他の人が不幸にならなければならない」と考える人は、地獄のなかを歩いていると言わざるをえないのです。
 それでは、どのような生き方をすれば、自分の幸福と他の人の幸福とが一体化するのでしょうか。
 自分の幸福と他の人の幸福を貫くものは「奉仕の心」です。「世のため、人のために役立ちたい」と常に願って生きることは、自分の繁栄のためでもあり、同時に社会の繁栄のためでもあるのです。
 「自分は幸福であるが、国家や社会は不幸である」ということはありえません。国家や社会の不幸を願いながら、「自分だけは幸福でありたい」と思っても、両立しないのです。
 奉仕の心とは、別の言葉でいえば「愛」です。愛を仕事のかたちで表わせば、奉仕の心になるのです。
 奉仕の心を持つ人、「世の中のために少しでもお役に立ちたい」と願う人が、この地上に増えていけば、おのずと地上天国が出現します。それが、とりもなおさず繁栄の姿でもあるのです。
 たとえ個人の仕事であっても、「公の心」を持たなくてはなりません。「自分の仕事は社会全体と密接につながっている。自分がよい仕事をすることが世の中をよくしていくことになるのだ」ということを、いつも考える必要があります。
 自分も幸福になり、自分のまわりも幸福になること、「他の人が幸福になることは、自分の幸福でもある」と思うこと、これが最大の幸福なのです。」

 

「役に立ちたい」という気持ち

 人間がこの世に生まれてきたのは、仕事をするためである。

 しかも、その仕事とは、「世のため、人のため」に役立つものである。

 人間は生まれつき、「役に立ちたい」という気持ちを持っている

 大川隆法総裁は、『経営入門』で以下のように説かれました。

「人間は、遊ぶために生まれてきたわけではないのです。もし、遊ぶために生まれてきたように思っている民族がいたならば、その民族はおそらく滅びていくことでしょう。人間がこの世に生まれてきたのは、仕事をするためなのです。
 しかも、仕事とは、「世のため、人のため」に役立つものです。人間は生まれつき、「役に立ちたい」という気持ちを持っているのです。
 まず、この原点を知らなくてはなりません。
 ここを間違うと、何のために働くのか分からないまま、「妻や子供がいるから」「親や教師にそう教えられたから」など、他の人のせいにして、しかたなく働くことになります。しかし、そういう義務感で働いていたのでは、喜びも主体性も生まれてきません。
 したがって、出発点において、「仕事をしたいという気持ちは人間の天分であり、人間として生まれた以上、当然、持っている本質である。それが人間なのだ」ということを知っていただきたいのです。
 動物は、その日の食べ物を得るための活動などはしますが、それ以上のことはしません。ところが、人間は、それ以上のことをしようとするのです。
 人間が自分のその日の食事のことだけを考えているならば、動物と変わりませんが、人間には、そういう活動だけではなく、「それ以上のことをしたい」という気持ち、「世の中のため、人々のためになることをしたい」という気持ちがあります。これが動物と人間の違いなのです。
 「仕事をしたいという気持ちは人間の天分であり、生まれ持った本質である」ということの根拠は、まさしくここにあります。
 動物は、「世のため、人のため」などと考えたりはしません。もっぱら「自分のため」であり、それも、食べていくことができればよいので、「食べ物を得るため」ということばかりを考えています。
 本能という言葉で表現することが適切かどうかは分かりませんが、動物はそのような判断をします。
 しかし、それ以上のものを求めるのが人間なのです。
 したがって、「自分はその日の糧のためだけに、精いっぱい働けばよいのだ」と思っている人は、この世にあえて人間として生まれてくる必要はないのです。
 妻や子のために、あるいは、他の人に言われたために、いやいやながら働くのではなく、「人間は働くために生まれてきたのだ」と考えていただきたいのです。「働く」とは、〝傍(はた)を楽にすること″とも言われますが、「働くことによって、世のため、人のために役立とうとして、生まれてきたのだ」と考える必要があるのです。」
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