竹のたとえ

 一見カチッとしているものは、カチッとしているほどもろく、簡単に折れてしまうが、柔らかく見えるものは、そのなかに真の強さがあって、そう簡単には折れない。

 人生においては、竹のように、柔らかさを失わず、しかして強さを失わず、強さと柔らかさが共に調和して生長していく姿が必要である。

 「常勝思考」という名で呼んでいるのは、「人生の過程において、自分が調子のいいときも悪いときも、どちらも伸びていく」という考え方であるから、竹の生長していく姿によく似ている。

 幸福の科学大川隆法総裁は、『常勝思考』で以下のように説かれました。

「竹の節は、20センチか30センチぐらいの間隔です。しかし、どの竹も、その節の部分はカッチリとしています。根元からカッチリ、カッチリと伸びてきて、先のほうにいくほど、やわになり細くなって、風に揺れていますが、やわで風に揺れている部分も、時間が経つと、次第しだいに同じような節になっていくのです。そして、さらに大きな節になっていき、その上にもっと細く、先端が伸びていきます。
 あの竹という植物を見ていると、確実に確実に、節を固めて生長していくのがわかるのです。「ああ、大したものだな」と思います。10メートルになろうが、20メートルになろうが、竹が竹である理由、竹としての独自性を持っている理由は、あの節にあると私は思います。
 竹という植物は風に強く、いくら風が吹こうとも、そう簡単には折れないのです。やわであるけれども、単にやわなだけではないところは、いつも完全に勝ちつづけていることにあると思うのです。どれほど風が吹こうが、何があろうが、伸びつづけています。そして、自分が生長したという証拠を確実に刻み、それを私たちに見せてくれています。「これが私の生長した部分ですよ」というものを、はっきり見せてくれているのです。
 竹はその節をつくっていくときに、いったいどのような気持ちなのだろうか、と想像することがあります。一つひとつ節を積み重ねていくたびに、やはり、「これだけ自分は生長したのだ」という気持ちがあるのではないか、そこに充実感があるのではないかと私は思います。
 人生の組み立ても、竹の構造とよく似た部分があると思います。一人ひとりの人間は、やはり、竹のように細いものにしかすぎないのではないでしょうか。竹の直径は、太くなったとしても、ほんの20センチか30センチぐらいのものです。それ以上にはなりません。竹の子として頭を出してきて、その後、次第しだいに伸びていくわけです。このときに、柔らかさを失わず、しかして強さを失わず、強さと柔らかさが共に調和して生長していく、そうした姿が必要だと思うのです。
 すなわち、常勝思考という名で呼んでいるものは、「人生の過程において、自分が調子のいいときも悪いときも、どちらも伸びていく」という考え方ですから、まさしくこの竹の生長していく姿によく似ているのです。
 根本においては柔軟、柔軟であるが、したたか そうした考えなのです。一つの方向にしか曲がらないものであってもいけないし、また、決して曲がらないような硬いものであってもいけません。
 柿の木などは、竹に比べると揺れませんし曲がりませんが、簡単に折れてしまいます。竹は折れませんが、柿の木は折れます。柳の枝が折れにくいのも、ご存じのとおりです。 一見カチッとしているものは、カチッとしているほどもろく、簡単に折れてしまいます。しかし、柔らかく見えるものは、そのなかに、真の強さがあって、そう簡単には折れないのです。
 みなさんがめざしていくべきものは、やはりそうした姿ではないかと思います。」
(201~204ページ)

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