失敗

失敗者になることを怖れてはならない

 自分が失敗者になることを怖れてはならない。

 人の評価は、ずっとあとからついてくる。

 これは正しい、これは真実だと思ったならば、チャレンジしていく精神を持たなければならない。

 幸福の科学大川隆法総裁は、『勇気の法』で以下のように説かれました。

「スポーツや企業の例で述べましたが、「どのくらいの目標を立てるか」という問題は、ほかの世界でも同じです。目標が高くなれば高くなるほど、失敗は多くなります。しかし、それが、正しい方向であり、自分が興味・関心を持っていて、「やりたい」という気持ちがある道ならば、その道を突き進んでいただきたいと思います。
 特に、若い人には、「新しい時代を開くための礎となりたい」という大きな目標を掲げていただきたいのです。
 新しい時代は、一人だけで開くことはできません。数多くの人が理想を持ち、チャレンジし、その途中に倒れる人たちで“屍累々”になりながらも、怖れずに乗り越えていく者が次々と出てきてこそ、新しい時代が開けてくるのです。
 自分自身が失敗者になることを怖れてはなりません。「自分は屍累々のなかの一人になってもかまわないから、行ける所まで行きたい」と思うのが、やはり青年なのです。
 むしろ、自分が倒れたら、五年後、十年後、二十年後に、その志を受け継いで挑戦しようとする人に対し、「自分を乗り越えていけ。自分の失敗を参考にして、これを智慧に変えて、もっと先へ行け」と言って励ますようであってほしいのです。
 私も、批判などは、若いころから山のように受けています。宗教家として仕事をしていると、「出る杭は打たれる」などというレベルではなく、もっと激しいバッシング(非難)を受けていますが、平気でやってきたのです。
 「負けるものか」と思って、ずっと頑張っているうちに、しだいに仲間が増えてきました。私を信じる人が増えるに従って、だんだん団体ができてきて、そして何十年かたつと、世間の評価も、「まんざら嘘でもなかったのかな」という感じに変わってくるのです。
 人の評価というのは、ずっとあとからついてくるものです。
 したがって、「今すぐに人の評価が得られるのでなければ動けない」というような、卑怯な人間になってはいけません。自分が、「これは正しい」「これは真実だ」と思ったならば、それにチャレンジしていく精神を持たなければならないのです。
 どうか、孤独を怖れることなく、力強い人生を歩む勇気を持ってください。」
(48~50ページ)

 

失敗は最高の先生

 失敗は最高の先生であるから、これをヒントとして、「自分は何をしなければならないのか」「どこが違っていたのか」「どんな手を打たなければならなかったのか」ということを考えなければいけない。

 単に成功が続いているうちは、本当はまだ限界いっぱいまでやっていない。限界突破しようとしたら必ず失敗が生じるが、それで負けてはいけない。

 失敗は、成功するために、どうしても必要なものである。失敗を恐れた人には、それ以上の成功はない。

 大川隆法総裁は、『社長学入門』で以下のように説かれました。

「失敗自体は、そう悪いことではありません。失敗は、成功するために、どうしても必要なものなのです。人間は、失敗して初めて、成功への道が開けます。
 単に成功が続いているうちは、本当は、まだ限界いっぱいまでやっていないのです。その人の能力の範囲内でやっていて、限界まで来ていない場合には、成功状態が続くこともありますが、限界突破をしようとしたら、必ず失敗が生じます。しかし、それで負けては駄目なのです。
 失敗を最大の“教師”として、あるいは、それをヒントとして、「自分は何をしなければならないのか」「どこが違っていたのか」「どんな手を打たなければならなかったのか」ということを考えなければいけません。
 失敗は最高の“先生”なのです。
 成功のほうは、それほど“先生”にはならないことが多いのです。成功しているときは自己肯定だけになりがちです。「うまくいったのは、俺が仕事のできる人間だからだ」「俺の頭が良いからだ」「俺に才能があるからだ」「この商売が時流に乗ったからだ」などということはあるかもしれませんが、あまり参考にはなりません。
 しかし、失敗は“先生”になります。失敗をすると、人は考え込みます。考えに考えます。これが大事なのです。
 もし、「自分は成功以外にはしたことがない」という人がいたら、おそらく、その人は能力いっぱいまで働いていないと言ってよいでしょう。
 例えば、部長をする能力のある人が主任や課長をやっていたら、失敗はあまりしないかもしれませんが、本人にとっても会社にとっても宝の持ち腐れでしょう。「部長を張れる人が主任をやっている」などというのは、もったいないことです。あるいは、「役員をやれる人が課長でとどまっている」という場合も、上に見る目がありませんし、本人自身も自分を生かしているとは言えません。
「失敗はない」という人は、「自分は、能力いっぱいまでやっていないのではないか。能力の限界を突破しようと思っていないのではないか」「保身に走ってはいないか。事なかれ主義で、『失敗さえしなければ昇進できる』と思ってはいないか」ということを、自分にも問わなければいけませんし、組織の上層部にも、そういう問いかけがなされなければいけません。
 トップである社長が失敗をしないような会社は、伸びない会社でもあるのです。
 ベンチャー企業のようなところには失敗は付きものです。新しい業態をつくっていこう、新しい業種に進出していこうとする場合、失敗は付きものであり、絶対と言ってよいほど失敗をします。それを恐れている人は、新しいところには進出できないのです。
 失敗を恐れる人は、今までのスタイルをずっと守るかたちの仕事しかできないので、大きくなることもなければ、新分野で活躍することもありません。「失敗を恐れた人には、それ以上の成功はないのだ」ということです。」

 大きな理想を抱き、成長発展していく過程では、悪口や批判などの攻撃を受けるものであるし、大きな理想を実現しようとして、高い目標にチャレンジし続けるかぎり、数限りない失敗が出てくるものである。

 失敗をどう乗り切り、苦難・困難、挫折からどう立ち直るか、そこからどのような教訓を学び取り、さらにもう一段、大きな成功へとつなげていくかが大事であって、そのためには、「あらゆる苦難・困難のなかに成功への種子がある」という考えを持たなければいけない。

 あなたが背負えないほどの“十字架”を背負わされることはない。

 総裁は、『未来の法』で以下のように説かれました。

「大きな理想を抱き、それを心に刻みつけて、繰り返し考え続けると、人間は、その方向に向かって成長し、発展していきます。それは間違いありませんが、その過程で、ライバルや敵が現れたり、悪口や批判などの攻撃を受けたりするようになります。しかし、それらをかいくぐっていかなければ、成功の軌道に乗っていくことはできません。
 そういう意味では、「悪口を言われたり批判を受けたりしたことが一度もない」ということは、「小成に甘んじている」ということでもあるわけです。
 大きな成功を求めようとすれば、必ず、人の目について、批判を受けるようになりますから、当然、成功学としては、ある程度、このことを織り込んでおかなければいけないでしょう。
 成功の道に入った人のなかには、「自分は批判を受けたことがない」「自分は一度も失敗したことがない」などと豪語する人がいるかもしれません。しかし、そういう人は、おそらく、求めているものが小さいのだろうと思うのです。
 大きな理想を実現しようとして、高い目標にチャレンジし続けるかぎり、数限りない失敗が出てくるはずです。無数の失敗をせずに大きな成功を成し遂げた人はいないと思います。
 例えば、「従業員が十人の会社を起こし、一生、従業員数が十人のまま、何の失敗もせず、うまくいった」ということも、一つの成功かもしれません。しかし、「もし従業員が百人の会社になったら、どうなるか」といえば、とたんに“刃こぼれ”がたくさん起きてくるでしょう。それは当然です。
 そのように、理想や志が大きくなればなるほど、新しい困難が現れ、必ず失敗が生じます。先ほど、「成功を目指している人にはライバルや敵が出てくる」と述べましたが、成功への道は、「失敗に対して、どのように対処するか」という道でもあるのです。
 失敗には必ず遭遇します。それを、どのように乗り切るか。苦難・困難、挫折から、どのように立ち直るか。そして、そこから、どのような教訓を学び取り、さらに、もう一段、大きな成功へとつなげていくか。そういうことが大事です。
 そのためには、「あらゆる苦難・困難のなかに成功への種子がある」という考えを持たなければいけません。
 あなたが、今、何らかの苦難に直面しているならば、それは、「あなたは、それだけの苦難に立ち向かうべき人物である。それだけの試練に遭うべき人物である」ということを教えてくれているのです。
 あなたが背負えないほどの“十字架”を背負わされることはありません。
 その試練のなかで、自分の未熟な部分を知り、まだ分かっていなかったことを理解し、悟っていなかったことを悟って、次の成功の種に変えていくことが非常に大事です。」

 

人生最大の失敗は、「失敗が一度もない」ということ

 チャレンジするかぎり、失敗はあるが、失敗を怖れていたら、若者ではない。

 どんな世界でも、目標が高ければ高いほど、失敗する確率も高くなるが、最初から失敗を怖れて何もしなければ、何も成し遂げることはできない。

 人生最大の失敗は、「失敗が一度もない」ということである。

 大川隆法総裁は、『勇気の法』で以下のように説かれました。

「チャレンジするかぎり、失敗はあるでしょう。目標が高い人は、必ず失敗をするのです。しかし、失敗を怖れていたら若者ではありません。「失敗を怖れる人は、すでに老人である」と言ってよいのです。
 年を取れば、特に努力をしなくても、だんだん保守的になり慎重になって、いろいろなことにチャレンジしなくなっていきます。
 経営者などは、年を取ると新しいことをしなくなるので、退陣に追い込まれることがよくあります。時代が変わろうとしていても、新しいことにチャレンジできなくなっていくため、一定の年齢になると、「老害だから、もうお引き取りください」と言われて、会社から追い出されるのです。
 若い人には、チャレンジする精神があって当然であり、それがなかったら、いけないのです。年寄りから、「それはやめなさい」と言われても、「そうはおっしゃいましても、どうしてもやりたいのです」と言って、突き上げていくぐらいの力を持たなければいけません。そうでなければ若者ではないのです。
 若者は、失敗を怖れず、挑戦していかなければなりません。
 「自分は失敗したことがない」と言う人は、「チャレンジしていない」と言っているのと同じです。
 仕事においてもそうでしょう。仕事をしない人には失敗もありませんが、積極果敢に仕事をする人は失敗の数も多くなるはずです。
 チャレンジをしていかなければ、新しい企業を起こすことも絶対にできません。「企業を起こしても、確率的には十に一つ程度しか成功しない」とも言われています。しかし、それを分かっていながら、目標を高く持ってチャレンジしていかなければ、道は開けないのです。
 学生であれば、スポーツでも同じでしょう。野球やサッカーなど運動部に属している人が、「何とか補欠選手にはなりたい」という志を立てたとすれば、半分ぐらいの人は、その目標を達成できるかもしれませんが、正選手になり、「地方大会に出場したい」「国体に出たい」というように、目標が大きくなるに従い、だんだん難しくなります。もし、「オリンピックなどで金メダルを取りたい」ということを目標にすれば、99.99パーセントは実現しないでしょう。
 どんな世界であっても、目標が高ければ高いほど、失敗する確率も高くなります。しかし、最初から失敗することを怖れて何もしなければ、何も成し遂げることはできないのです。
 目標を下げれば、失敗はしなくなるでしょう。何もしなければ失敗もないのです。しかし、そういう人は何も挑戦していないはずです。何も挑戦しないまま人生を終えて、本当に良いと思っているのでしょうか。
 人生最大の失敗は、「失敗が一度もない」ということです。「失敗したことがない」ということが人生最大の失敗なのです。それを知らねばなりません。」

 

挫折の意味

 一生を通じて成功し続けることは、なかなかできない。人生の問題に立ち向かう腕が上がってくると、それ相応に難しい課題が出てきて、誰しもどこかで壁につき当たる。

 しかし、深い真理の目から見たならば、挫折は単なる悪ではない。失敗を「智慧」に変えていくところに、人生の意義のかなりの部分はある。

 そもそも、人間の本質は肉体に宿った霊的存在であり、人間は魂の経験を積むために、この世に生まれてくる。失敗や挫折も、その経験のうちであるから、智慧として遺るのである。

 総裁は、『勇気の法』で以下のように説かれました。

「何事であれ、人生において成功したり勝利したりすれば、もちろん、うれしいものですが、実際には、一生を通じて、成功し続けること、勝ち続けることは、なかなか、できることではありません。
 実は、人生の問題に立ち向かう腕が上がってくると、それ相応に、難しい課題が出てくるものです。成功を続ける人は、より高い目標を持とうとしますし、勝負に勝つ人は、より強い相手を求めていきます。誰しも、進み続けるなかで、壁に当たることがあるのです。
 挫折について考えるときに、まず知っておくべきことは、「挫折は単なる悪ではない」ということです。この世的、表面的に見たときには、「成功は善、失敗は悪」と考えられがちですが、深い真理の目から見たならば、必ずしもそうとは言い切れないところがあるのです。
 以前、“失敗学”というものが流行ったことがありました。これは、同じ失敗を繰り返さないために、起こってしまった失敗の原因を明らかにするものです。
 「他の人は、どういうかたちで失敗しているか」という事例を勉強すると、自分にとって参考になることがあるのです。同じような失敗パターンはいくらでもあるからです。
 他の人がやって、うまくいかなかったやり方を研究すると、ある程度、それを避けることができますし、場合によっては、もう少し簡単に乗り越えることができます。あるいは、たとえ失敗したとしても、深刻に悩みすぎることなく、次の日からまた明るくスタートできることもあるのです。
 失敗を「智慧」に変えていくという視点を見落としたならば、人生の意義というものは、かなり失われてしまいます。
 宗教においては、そもそも、「この世は仮の世界である」と言われています。
 「本当の世界は、あの世の世界であり、『この世に生きている』ということは、ふるさとを離れて外国旅行に来ているようなもので、一時期の旅なのだ。旅行の途中で、いろいろ失敗もするが、そこは、やはり本来の世界ではない。
 人間の本質は肉体に宿った霊的存在であり、人間は魂の経験を積むために、この世に生まれてくる。失敗や挫折も、その経験のうちに入っているため、智慧として遺るのだ」
 そういうことを、私も、繰り返し説いてきましたが、そのとおりなのです。
 みなさんは、「より実りの多い人生」を目指すべきです。「人生の実り」という観点から見たときには、成功体験も失敗体験も、そのなかから得るものが、たくさんあるのではないかと思います。」

 

「これだけ大勢の人間が生きているわけですから、「すべての人が、誰もがうらやむような成功を収める」ということは、ありえないと見てよいと思います。みなさんの人生においても、失敗や挫折は、いくらでも出てくるでしょう。しかし、そのときに、「同じ立場に置かれても、菩薩のような心境になる人もいれば、地獄の悪魔のような心境になる人もいるのだ」ということを忘れないでいただきたいと思います。
 挫折や失敗のなかでも、そこに天意を感じ取り、そのなかで自分ができる最善の努力をして、新しい道を開いてください。環境は変えられなくても、考え方を変え、心境を変えて乗り切っていくことはできるのです。そのようなことを教訓として、挫折に耐える力を養っていただきたいと思います。」
(『勇気の法』)

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