志

 志を問う人よ。まずは自らがその実例になろうではないか。

 そして、まわりの人々を感化していこうではないか。情熱を教えていこうではないか。

 この呼びかけに応える偉人よ いでよ。

 幸福の科学大川隆法総裁は、『人生の王道を語る』で以下のように説かれました。

「世の中には、どうすれば志を持てるのかと訊く人がいます。どうすれば理想に燃えることができるのかと問う人も、数多くいます。どうすれば熱情を持って生きていけるのかと問う人もいます。
 しかし、そういう人たちへの答えは、たった一つの実例が出てきたら、それで十分なのです。たとえば、今この本を手にされているみなさんのなかに、一人、志の高い人が出てきて熱情ある人生を示したら、これでほかの人たちへの説明はいらなくなるのです。
 そうなのです。志というのは感化力を持つのです。他の人びとへの影響力を持つのです。人は、その波動に、その念いに、揺り動かされます。そして不思議なことに、その志が自分のなかにも宿るのです。ああいうふうに生きてみたいという気持ちが、宿ってくるのです。
 そうであるならば、こういう真実に目覚めたみなさんであるならば、手本を求めるのもよいが、自分がまず手本になってみようとは思いませんか。不幸の底にあり、敗北の底にあっても、なお明るく生き、マイナスの思いは出さず、研究を重ね、さらに工夫をし、もう一度挑戦していく。そして、高い志のもとに生きていく。みずからがそういう姿を見せることこそ、じつは多くの成功者を生み出していく秘訣なのです。
 私は、偉人の条件とは、迸(ほとばし)り出てやまない熱情であるように思います。挫折なんか、どこにでも転がっています。失敗なんか、どこにでも転がっています。自己憐憫に陥るような出来事、条件など、いくらでもあります。身体に関しても、才能についても、自分を憐れもうと思えばいくらでも憐れむことができましょう。そんなものは、世の中に掃いて捨てるほどあるのです。
 そうではないのです。要は、どのような掃き溜めみたいな人生環境のなかに生きようとも、そのなかで、いかに鶴のように生きるかです。掃き溜めのなかからでも、鶴のように生きられるかどうかなのです。それが大事なのです。そういう人が出てきてこそ、世の中は幸福に満ちた人びとでいっぱいになるのです。
 人柄がよくても幸福になれない、頭がよくても幸福になれない人には、この情熱というものが必要です。それを教えてあげることが必要です。そうであってこそ、初めて幸福の扉というものは開いてゆくものなのです。」
(112~114ページ)

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