わが社は何のためにあるのか

会社は誰のものか?

 会社は株主のもの、会社は社員のもの、会社は顧客のもの等、会社は誰の所有物なのかについては様々な見解がある。

 (1) 会社は株主のもの

 会社の法的な所有権は株主に帰属する。

 会社は株主のものではあるが、社員や顧客への感謝(配慮)なくして会社を所有するメリットや株主価値は高まらない。

(2) 会社は社員のもの

 社員にとって会社は第二の住処のようなものである。定年を迎えるまでは会社人生がそのまま自分の人生と考える社員もいる。

 会社は株主のものではあるが、会社に人生を捧げるほどの社員のことを考えると、「会社は社員のもの」という理屈も通らなくはない。

 事業は人なりの言葉通り、社員の働きなくして会社経営は成り立たないので、社員を大切にすることは絶対条件だが、会社は社員のものではない。

(3) 会社は顧客のもの

 会社の存在意義は、顧客の利益を叶えるところにある。

 「会社は顧客のもの」という前提に立って事業活動を推進することが、安定経営の原理原則になる。

 社員は会社の所有欲を出すことなく、会社を作ってくれた株主と、自分達の報酬を保証している顧客に対して心から感謝することが何よりも大切である。

 伝統的な日本企業やサラリーマンには、「会社は株主のもの」という考えとはまったく別の意見がある。むしろ、「会社は社員や顧客のもの」というのが実感に近い。

 顧客軽視の会社に明るい未来はない。顧客の幸せがあって、初めて会社経営が成り立つのです。

 ただし、顧客の選別は重要で、例えば、会社が相手にしている顧客像が不明瞭だと、企業価値を棄損する勘違い顧客やモンスター顧客を招くリスクが高まる。従って、会社が相手にしている顧客像を明快に発信することが大切で、ここが明快なほど、顧客は会社に沢山の利益を落とし、巡り巡って、その利益が株主や社員に還元される。

 株主は顧客のために会社を作り、社員は自分の幸せのために顧客に尽くす。会社は顧客のものという考えで事業活動を推進することが、利害関係者(ステークホルダー)の幸せを最大化する確かな道だと思えます。

参考

 長期的に見れば、社員がやる気を持ち、多くの顧客が高い満足度を感じるような事業をするが会社の価値も上がる。短期的に株主の利益になることをやれば、長期的に株主自身の首を絞めることになる。会社の経営の細部まで株主の思い通りにやるべきではない。

 経営陣、社員、顧客の総意で経営の方針は決まってくる。その事業の結果、利益が上がれば、株主は出資者として利益を受け取るだけである。株主権のことを残余請求権ともいう。賃金支払いや債務返済をした後に残る会社の残余利益をとる権利のことである。つまり、株主は残り物をとる権利を持つに過ぎないと見るべきである。

 パナソニックの松下幸之助の理念や、FA・制御機器の有力メーカーであるオムロンの基本理念にもあるように、会社を社会の公器とみなす考え方は、会社は全社会のものであるという見方に一致する。

 松下幸之助が言っていたように、会社は公器であり、その本質というものは世間様のものなのである。その上で、日本企業は企業の維持・存続というものを第一に考え、それを前提にしてその他の利害調整を行い、経営者が複眼的管理を行っていくことが、今後の日本企業のコーポレート・ガバナンスを考える上で重要である。

 

わが社は何のためにあるのか

 「会社は何のために存在するのか」 抽象的な問いかけであるが、経営者はこの問いかけに明確に答える必要があります。

 企業は金儲けを目的としているという誤解がある。その理由の一つには、経営学において、「私企業の行動目的は『利潤動機』にあると考えられるから、その場合の合理的行動の目標は利益の最大化にある」という考え方をしている影響にあろう。

 短期的に利益を計上することを重視するアメリカ型の経営思想の影響もある。

 しかし、現実問題として、企業を発展させるためには、「世のため、人のため」という考え方が必要である。

「自分の会社において、宗教的な理想や使命感にも似たものを何らかのかたちで考え出さなければいけないのです。「自分の会社を通じて何ができるか。仏国土ユートピアづくりに、いかなるかたちで参画することが可能であるか」ということを、とことん考え抜くべきです。

 経済の原理から言っても、基本的に、世の中の役に立たないものは消えてなくなり、人々の役に立つものが残っていくことになるので、この「根本的な哲学を考え抜く」ということは非常に大事なことなのです。」(法話「宗教と経営」1998.3.24)

 「世のため、人のため」に貢献できない会社は、顧客の役に立てないことを意味するため、自由競争のなかでは淘汰されてしまう。したがって、経営者としては、強い使命感を持って、人々の役に立とうと必死に考える必要がある。

 実際、「金儲けのため」「生活のため」だけでは、顧客の支持を十分に得ることは考えにくい。

 利益や企業の目的について、ドラッカーは次のように定義している。

 「利益は、企業や事業の目的ではなく、条件なのである。また、利益は、事業における意思決定の理由や原因や根拠ではなく、妥当性の尺度なのである。」

 「企業の目的として有効な定義は一つしかない。すなわち、顧客の創造である。」

 「企業にとって、第一の責任は存続することである。言い換えるならば、企業経済学の指導原理は利益の最大化ではない。損失の回避である。企業は、事業に伴うリスクに備えるために、余剰を生み出さなければならない。リスクに備えるべき余剰の源泉は一つしかない。利益である。」

 経営をする上で、「会社の目的は利益の追求である」という考え方があれば、その思い込みは取り除いていくべきである。

「「わが社は、何のためにあるのか。なんのために存在するのか。なんのために存在しなければならないのか」という問いに対する答えが「社員がみな食っていくため」「私が社長を続けるため」ということだけであれば平凡です。

 これは普通の会社の考えです。「社員が飯を食えて家族を養えるために、そして、私が社長を続けられるといいな」という答えは、普通の答えなのです。(『社長学入門』P-253~254)

 並みでない大発展をした企業は、すべて並みでない熱意を持っている。経営者が、管理職が、この異常性のある熱意を持っていることが会社が大発展する秘訣である。

 その熱意は使命感から生まれる。そして、その使命感は、「わが社は何のためにあるのか」という問いの答えを求め、考えつづけるところから生まれる。

 大川隆法総裁は、『リーダーに贈る「必勝の戦略」』で以下のように説かれました。

「戦後に発展した、いろいろな企業等を見ても、〝異常性のある発展〟をしたところは、残らず、そこの経営者が、〝異常性のある熱意〟を持っています。その熱意は並ではありません。いわゆるサラリーマンの熱意とは違います。サラリーマンの熱意は給料の範囲内でしょう。異常な発展をしたようなところは、すべて、経営者の熱意が普通ではないのです。
 トップのその熱意は、どこから来ているかというと、やはり使命感でしょう。その使命感は、どこから生まれているかというと、「『わが社は何のためにあるのか』という問いの答えを求めて考えつづけている」ということでしょう。
 「社員が飯を食えて家族を養えるために、そして、私が社長を続けられるために、わが社が存在しつづけられるといいな」という答えは、普通の答えなのです。
 しかし、こんな答えでは駄目です。たとえ、小さくても、社員が三十人、五十人、百人の企業であっても、「世を照らす。社会を照らす」という気持ちを持っているところは、やはり大きくなります。
 それ以外の条件もたくさんありますが、まず、そういう情熱を持たないかぎりは発展しません。
 企業間の競争は多いので、はっきり言えば、なくなったとしても困らない会社ばかりです。会社のほうは、「そんなことはない。うちこそ老舗です」「百年やりました」「有名な会社です」などと言うわけですが、「ほんとうに必要か」というところを、やはり問われているのではないでしょうか。
 ある会社や店が、いま地上から消えたとして、その当座は、そこで働いていた人たちは困りますが、それ以外の人にとっては、消えて困る会社も店も、そんなにはありません。競争があるので、すぐに、ほかのものへ鞍替えできるのです。
 テレビだって、自動車だって、ほかの会社から買えます。着る物だって、よそから買えます。農作物だって、日本で穫れなければ海外から買えます。
 だからこそ、「なぜ、うちの製品を買いつづけてもらわないといけないのか」「なぜ、わが社がありつづけなければいけないのか」という問いに答えなくてはいけないのです。
 「絶対に必要だ」と言い切るのは非常に難しいことです。
 「『絶対、うちの会社がなければ困るのだ』というものを考え出せ。その哲学をつくり出せ」と言わなければいけません。そうすれば、みんなが燃え上がってきます。そうなれば発展するでしょう。哲学を持っていない会社と持っている会社の違いは歴然です。
 そういう使命感のもとにあるのは、「なぜ、わが社は必要なのか」という根源的な問いを持ちつづける、経営者なり管理職なりがいることでしょう。
 こういう根源的な問いに答えてください。その答えを考えるなかで、やるべきことは、はっきり見えてくるはずです。」
(23~27ページ)

 経営者自らが、「わが社は何のために存在するのか」という問いを考え続け、自社が存続すればよいという小さな目標ではなく、「世の人々の幸福に寄与する」という思いを持つ。そして、その使命感を自身の背中でもって社員に示していく。

 経営者の使命感の強さに応じて、社員の熱量が変わってくるということが分かります。言葉を変えれば、どこまで自分の責任を広げられるかが、リーダーの器の大きさを決めるということでしょう。

参考

 ところで、部下がやる気のない場合は、上司も大したことはないことが多い。上のほうから、できるだけ、やる気を出していき、最後は末端まで変化するのが基本である。

 「なぜ、わが社が必要なのか。なぜ、わが社の商品は、売れなければいけないのか」という根源的な問いへの答えを考えるよう努力せよ。

 大川隆法総裁は、『社長学入門』で以下のように説かれました。

「一般には、部下がやる気のない場合は、上司も大したことはありません。やはり、下よりは上のほうが強いので、上のほうにやる気が出てくると、それは、どうしても下に伝染するのです。
 したがって、あまり下のせいにしてはいけないところがあります。部下は、認識力が低いから部下をやっているのだし、知識が少ないから部下をやっているのだし、経験が少ないから部下をやっているのです。
 やはり、「上のほうから、できるだけ、やる気を出していき、最後は末端まで変化する」というのが基本です。
 「部下にやる気がない」というのは、一般的に、どこでもそうなのだろうと思います。給料以上は働く気のない人が九割以上です。
 給料以上に働く気のある人は、出世していく人なのです。トントン、トントンと上がっていく人は、給料以上に働いている人です。
 しかし、たいていの人は出世しません。そして、出世しない人は、「給料以上に働いたら損だ」と思っています。
 「給料以上に働かないと、自分としての使命が果たせない」と思っている人は、同期を尻目に出世していく人です。こういう人は、いつも一部なのです。
 ただ、その会社のなかでは、そのようになるけれども、やはり、ほかの会社に比べて違いが出てこなければ、会社全体としては、良くなっていきません。
 そういう意味で、「本当に必要とされているのか」ということを問うてほしいのです。」
(250~262ページ)

 不況やデフレだからではなく、必要とされていないから伸びない。

 トップも各セクションの長も、わが社が、わが社の商品が必要とされ続けるためには、どうしたらよいのかと考え続けることが大切です。

 この根源的な問いの答えを考えるなかで、やるべきことがはっきり見えてくる。

 大川隆法総裁は、『智慧の経営』で以下のように説かれました。

「不況やデフレを言い訳にしたら、その段階で努力が終わってしまいます。不況だから伸びないのではなくて、あるいは、デフレだから駄目なのではなくて、必要とされていないから、広がらないし、伸びないのです。そういうことだと思います。何でも同じことです。
 伸びなければ、必要とされていないことになるのですから、「必要とされ続けるためには、もっと必要とされるためには、どうしたらよいのか」ということを考え続けることが大切です。
 トップも考えるべきですが、各セクションの長も考えるべきです。そうすると、それが下までだんだん伝染していきます。

 

企業の栄枯盛衰と淘汰の原理

 企業の栄枯盛衰にも「淘汰の原理」が働く。世の中の役に立っているものが勝ち残っており、これは消費者にとってもよいことである。

 競争を否定すると、努力のない世界になり、結局、永遠の停滞になってしまう。

 世の中には勝敗というものがあるのは、マクロの目で見れば、進化を目指して進んでいるのであり、それはかたちを変えた幸福論であって よいことである。

 総裁は、『常勝の法』で以下のように説かれました。

「それは、それだけを見れば悲しいことではありますが、もっと大きな目で見れば、企業の栄枯盛衰にも「淘汰の原理」が働いていて、世の中の役に立っているものが勝ち残っています。役に立っているものが勝ち残るということは、結局、ユーザー、すなわち消費者、利用者にとっては、よいことなのです。よりよい商品を出すところ、よりよいサービスを提供するところが勝ち、サービスの悪いところが滅びていくのは、ユーザーにとって、ありがたいことです。
 たとえば、以前は、郵便局から小包を送る場合、規格どおりでないと、「だめです」と言って突き返されました。しかし、宅配便ができてからは、郵便局はそうしたことを言わなくなりました。宅配便は、家まで荷物を取りに来てくれて、どのような包装をしてあっても送ってくれます。しかも一日で着くのです。そうなると、小言を言っていた郵便局の人もだんだん優しくなり、応対が丁寧になってきます。そして、最後は、郵便局が存続できるかどうかという戦いになるわけです。
 これは厳しいことですが、実際に利用する人にとってありがたいところが生き残っていくほうがよいのです。勝負によって、一見、勝者と敗者が生まれますが、結果的には、トータルでサービスの向上や社会の発展になることがあるので、その意味における勝負を否定してはいけないと思います。
 これを否定すると、努力のない世界になります。「勝者もなく、敗者もなく」というのは、よいことのように聞こえますが、結局、永遠の停滞になるのです。それは、ある意味では、全員が敗者であるということです。そのように、だれも向上を目指さない世界になり、停滞していくことがあるのです。
 したがって、「もしかしたら、つぶれるかもしれない」という危機感があることは、企業にとってはよいことであり、また、個人にとっても、「もしかしたら、クビになるかもしれない」という危機感があることは、よいことなのです。
 多くの人が、人生の勝負、あるいは仕事上の勝負に勝つことを目指していくことは、個々には悲劇が生まれることもありますが、マクロ(巨視)の目で見れば、大きな意味においては、やはり進化を目指して進んでいることになると言ってよいと思います。
 また、現代では、昔のような露骨な戦というものは少なくなっており、それが経済競争になったり、学力競争になったり、いろいろなかたちでの戦いに変わっています。いまの戦いは、刀で首を斬るだけのものではなくなっています。
 経済的な戦いにおいては、ほんとうの意味での敗者はいないのです。勝者は必ず、ほかの人々にとっても有利な条件を提示してくるので、敗者はいないのです。そういう意味で、血を流す昔の戦いよりは、よくなっていると思います。
 このように、世の中には勝敗というものがありますが、それは、かたちを変えた幸福論、姿を変えた幸福論になっていることもありますし、イノベーションの原理でもあります。それはよいことなのです。」
(109~115ページ)

 経営者自らが、「わが社は何のために存在するのか」という問いを考え続け、自社が存続すればよいという小さな目標ではなく、「世の人々の幸福に寄与する」という思いを持つ。そして、その使命感を自身の背中でもって社員に示していく。

 経営者の使命感の強さに応じて、社員の熱量が変わってくるということが分かります。言葉を変えれば、どこまで自分の責任を広げられるかが、リーダーの器の大きさを決めるということでしょう。

厳しい時代こそ「何のためにこの事業はあるのか」を考え続ける

中にいる人が成長し、会社が公器に変わっていくこと

 コロナ禍において、休業・時短要請が続いた飲食店など、店舗の撤退が増加しているが、補助金や融資の継続で継続できている会社も多く、倒産はまだ目立っていない。

 大川隆法総裁は、「これはいずれもたなくなる」「通常の価値を生む仕事の形を取り戻していかないと危険性はある」と指摘した。

 組織体として事業が発展していくためには「組織体として、より多くの人たちに、いい方向で感化を与えられる経済的成長等を遂げること」が必要であり、「中にいる人が、人間的にも成長し、道徳的にも成長し、かつ、会社自体が、次第に個人のものから公器、公の器に変わっていくように、努力して成長させていかなければいけない」と語った。

 

「何のためにこの事業はあるのか」を繰り返し教えること

 そして、総裁は、事業家として事業を大きくしていく方法として「何のためにこの事業はあるのか」という経営理念を考え、従業員に繰り返し教えることが大事であると指摘。トップが部下を育てられるなら企業は成長軌道に乗っていく可能性があるとし、部下に仕事を任せ、失敗したらフォローや注意をするなど、人を育てるマインドや努力が必要であるとした。

 さらに、本業から外れたことをし始めたら間違いになるということで、幸福の科学も世の中の組織も、その使命の本筋から考えてやり方や仕事が正しいかを考えるべきであると指摘。基本的に明るい考え方を持ち、自我我欲を満たすためではなく、世のため人のために発展・繁栄をしていきたいという気持ちを持つことが成長の原動力になると語った。

参考

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