仏教のイノベーション運動

 現代でいうと、PR戦略とかマーケティング戦略とかに当たるものかもしれないが、新しいものが出てくるときはそうなるものであって、新宗教は、伝統宗教は要らないという言い方をするものである。

 釈迦が中心に置いていたのは出家者の悟りを開くことであり、これを受け継いだ小乗仏教は、戒律を守ることを中心に運営されていたが、それでは広がらない。

 在家に伝道をかけていかなければ財政基盤もできないし信者もできないから、戒律主義的な小乗仏教について否定的なことも言わなければいけないことがあったのであって、結局、それは、仏教のイノベーション運動の一つでもあった。

 幸福の科学大川隆法総裁は、『文殊菩薩の真実に迫る』で文殊菩薩の霊の言葉(霊言)をこのように伝えておられます。

「それは、現代でいうと、PR戦略とか、マーケティング戦略とかに当たるものかもしれません。
 「自分たちの存在を、どういうかたちでPRし、広げるか」ということには難しいものがあるので、基本的には、宗教的な法戦、ないしは、論戦、批判というかたちで、PRをするわけです。他教団についてもそうですし、仏教のなかでもそうです。
 仏教は、和合僧破壊の罪を定めているものの、仏陀滅後、十八部から二十部に分かれていきましたのでね。そして、お互いに、「この教えこそ正しい」「いや、そんなことはない。この教えこそ真理だ」という主張はたくさんあったのです。
 仏陀は、在世中、和合僧破壊の罪についてずいぶん厳しく言っていましたが、やはり、そうは言っても、教えが大きすぎて、理解を超えている面があるし、やはり、自分たちの好きな教えというのがあるじゃないですか。
 幸福の科学で言えば、光明思想的な教えが好きな者とか、反省が好きな者とか、「なんとなく、禅定が好き」というような者とか、成功論が好きな者とか、まあ、いろいろあると思います。あるいは、「病気治しが好き」という人もいるかもしれない。「祈願が好き」という人もいるかもしれません。こういうかたちで、頭が単細胞になってくると、教団が分かれてくるのです。
 これは、必ずしも、「悪意、害意があってのこと」とは言えないのですが、どうしても認識力に限界があるので、何かを強く打ち出すと、ほかのものが失われていくことがあるのです。あるいは、何かを強く打ち出そうとするときに、その足を引っ張るものを否定してしまうこともあります。
 だから、「ヒーナヤーナ(小乗)と言って、貶(おとし)めた」という言い方をしていますが、新しいものが出てくるときは、基本的にはそうなのです。新宗教が出てくれば、「伝統宗教は要らない」という言い方をするものです。
 確かに、もともと、釈迦が中心に置いたのは、「出家者の悟りを開く」ということであり、こちらのほうに重点があったと思いますが、釈迦自身は、「在家に対する伝道」と「出家者に対する指導」の二つを持っていたのです。釈迦は、教団が変化していくことについて、柔軟に対応しています。細かいことをあまり言わず、「その段階に応じたやり方でよろしい」ということで、基本的には、「最初、禁止していたようなことでも、細かいものについては廃止して構わない」という考えの人だったのです。
 小乗仏教のほうは、「戒律を守る」ということを中心に運営されていたのですが、これでは広がらないのです。
 したがって、在家のほうに伝道をかけていかなければ、財政基盤もできないし、信者もできません。やはり、「教えの重点を絞り、伝道していく」というのは、当然、必要なことなのです。そのため、ある意味で、戒律主義的な小乗仏教について、否定的なことも言わなければいけないことがあったと思いますね。
 結局、それは、仏教のイノベーション運動の一つでもあったのです。」
(135~142ページ)

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