光明的なものの考え方

 もっとも初歩の教えとして、「明るく生きること」というのは大切でした。しかし、その次の段階として、「明るく建設的な考え方を持つと同時に勤勉な自助努力の精神を持っていること」も大事です。その自助努力の精神の背景には、健全な宗教的精神性も必要です。

 幸福の科学大川隆法総裁は、『繁栄の法』でこう教えておられます。

「人間の心にはみずからの将来を決める力があり、どのような精神態度を持ちつづけるかによって人生は変わっていきます。子供を指導する立場にある人は、この点を知っている必要があるのです。
 「積極的で建設的な考え方、明るい考え方を持つことが大事だ」という意見がよくありますが、私も基本的には賛成です。そうした考え方を持たなければ、成功する力は出てこないと思います。物事には100パーセントということはあまりないので、プラスが出る方向で物事を考えていくことが非常に大事です。
 ただし、単に明るく考えればよいわけではありません。「着々と努力を重ねる」という精進の裏付けを持ちながら、明るく積極的な考え方を持つことが必要です。これがポイントなのです。
 光明思想型で失敗する人は、詰めの甘い場合がほとんどです。自分の努力が足りない部分を光明思想で補うタイプの人は、詰めの甘さで失敗しやすいのです。やるべきことをやらずに、「よくなるしかないのだ」などと言っていれば、失敗するのは当たり前です。要するに、自分に対して甘いのです。
 もちろん、心の方向性を決める意味で、積極思考は非常に大事です。積極思考を持っている人は、結局において、よい人生を送る場合が多いと思います。ただ、その過程においては、積極思考が自助努力の精神と合体する必要があると私は考えます。
 自助努力の精神と合体しない積極思考を持っている人は、ほとんど他力本願型であり、「神様、仏様が全部やってくれる」という考え方をしています。
 心の苦しみや悩みを預けてしまうという意味では、それも効果があることは事実ですし、「すぐに結果を出したい」という焦りに対する抑止力として、他力に頼るのも大事なことだとは思います。
 しかし、各個人を引き上げない思想は本物ではありません。それは一時的な麻酔薬や鎮静剤にはなりますが、最終的なものではないのです。
 したがって、明るく建設的な考え方を持つと同時に、コインの裏側として、勤勉な自助努力の精神を持っていることも大事です。そして、自助努力の精神が「神も仏もあるものか」という思想に行かないようにするために、健全な、宗教的な精神性も持たなければいけないのです。」

(43~45ページ)

 光明的なものの考え方は、個人においては非常に有用で大事なものである。しかし、組織のリーダーとしては、客観的事実は変化しない以上、安易な考え方が致命的な失敗になりうる。

 天国的な思想が地獄的なものに転化することもあることを知らなければならない。

 大川隆法総裁は、『常勝の法』で以下のように説かれました。

「光明思想でよく出てくるたとえ話がありました。それは、「一つのコップのなかに水が半分入っている場合に、『水が半分しかない』という見方もあれば、『半分もある』という見方もある」というものです。
 コップのなかの半分の水を、「半分しかない」と見るか、「半分もある」と見るかという、ものの見方によって、人生観が変わり、幸・不幸も変わってくるということは、個人においては言えると思います。これは光明思想の出発点の一つです。「与えられていることに感謝する」ということは、宗教的な観点から言えば、充分にご利益のある考え方ではあります。
 ただ、ここに一つ、落とし穴があるのです。「自分はこういう見方をする」というのは、個人としてはよいのですが、たとえば、一国の政治を預かる者や、一国とは言わないまでも、従業員が百人以上の会社や大きな組織などを預かる者としては、「コップに半分しか水がない」という事実そのものは変えることができないことを見逃してはならないのです。客観的事実は変化しないという点を見逃したときに、組織のリーダーとしては致命的な失敗を犯すことがあるのです。
 そうした失敗をもたらすものの一つが、戦争で言うと、たとえば兵姑を無視する思想です。「コップに半分も水がある」という考え方を突き詰めていくと、先の太平洋戦争のときの日本軍の考え方につながるものがあります。大勢の軍隊が移動する際の食糧ということで考えた場合には、非常に大きな問題になります。食糧の量によって、「何人が何日間、行軍できるか」ということは、だいたい計算が立ちます。それを計算しない人が指揮をとったならば、いくら「考え方一つだ」と言っても、それは死の行進になるはずです。
 「考え方一つだ」という思想は、個人の勇気づけには充分に使えるのですが、組織という面では違ってきます。どのくらい持ちこたえられるかを計算することは、単なる臆病の論理や、光明思想に対する暗黒思想とは違います。それは智慧の部分に当たるのです。
 たとえば、地震等の天変地異には、当然、人心の荒廃や天上界の怒りも影響はしますが、その被害を小さくするためには、少なくとも耐震構造を持った建物や高速道路であることが必要です。手抜き工事をしたものまで仏神が加護することはありません。仏神は、そこまでは考えていないのです。壁のなかにコンクリートが詰まっていなかったり、鉄筋が入っていなかったりするのに、奇跡によって救おうと力を尽くすような仏神はいません。やはり一定の強度が必要なのです。
 したがって、光明的なものの考え方は、個人を出発点としたときには非常に有用で大事なものですが、大勢の人が生き、あるいは戦い、事業をし、成功しなければいけないという局面においては、安易な考え方が失敗につながり、悪を呼ぶことがあるのです。「天国的な思想が地獄的なものに転化することもある」ということを知らなければいけません。」
(251~258ページ)

 一般的には、善を思えば善が来るし、発展を思えば発展が来る。しかし、社会においては、自分だけでなく、他の人々もまた幸福を求めて生きているのだから、自分の力を客観的に見て、どこまでが正当な発展で、どこからが我欲になるかという境界を見極めることが大切である。

 特に上に立つ者は、その立場において当然持つべき見識なしに、甘い見通しで押し通してはならない。

 大川隆法総裁は、『常勝の法』で以下のように説かれました。

「一般的には、善を思えば善が来るし、発展を思えば発展が来ます。しかし、社会においては他の人々と共存しているのであり、自分だけでなく、他の人々もまた幸福を求めて生きているのだということを忘れてはいけません。
 たとえば、人々が、「よい店から、よい品を買いたい」と思っているときに、「自分の店だけが最高だ」と言っても、それが客観的なものかどうかが問われます。客観的に見てそうであるならば、そのように言ってもよいでしょうが、他の店も、やはり最高のものを求めて努力しているのです。
 したがって、自分の力を客観的に見て、「どこまでが正当な発展であって、どこからが我欲になるか」という境界を見極めることが大切です。よいものであったとしても、能力の限界を超えたときには、それは私利私欲と変わらなくなります。これを知らなくてはなりません。
 そのように、個人においても、組織を率いる者においても、常に主観と客観の両方の目を持って見ていく必要があるのです。
 コップのなかの水を、「半分しかない」と思えば心が暗くなり、「半分もある」と思えば心が明るくなることは事実です。しかし、大勢の人が水を飲みたいということになれば、話は全然違ってきます。自分一人なら、コップに半分もあれば充分かもしれませんが、大勢の人が水を飲みたいという状況であれば、そこに計算が必要です。
 一人で何リットルも水を飲みたいという人はいないでしょうから、一人当たりコップ一杯の水があれば充分でしょう。そこで、人数がどれだけいるかを見れば、必要な水の量が分かります。それを調えることができるかどうかは、上に立つ者としての見識です。この見識を持たずして、甘い見通しで押し通してはならないのです。
 国家のレベルでは、指導者はそれ相応の能力を必要とされますが、会社などの小さなレベルでも、それは同じです。
 会社を起こす場合、たいてい、それは社長一人の力でなされます。中小企業の場合は、90パーセント以上は社長の力です。社長の才覚、創意工夫、アイデアによって、企業は生まれ、成長していきます。しかし、その社長の能力の限界によって、会社はつぶれてしまうものなのです。
 会社が一定以上の大きさになったら、社長は自分の能力の限界をよく知り、自分と自分を補佐する人の力でやっていけるかどうかを考えなくてはなりません。補佐する人の力を合わせても、やっていける部分とやっていけない部分があるので、その限界がどこにあるかを見極める必要があるのです。
 また、時代の流れとして、その産業が追い風の産業であるかどうかということもあります。好況時には、下手な経営者というものはほとんどいません。どんなことをしても売れるからです。やはり、不況時に強いものこそが、ほんとうによいもの、ほんとうに強いものだと言えるのです。」
(282~285ページ)

 

能力がなくても成功できるか

 「自分に能力がなくても、まわりに有能な人を集めれば成功できる」というのは、謙遜の言葉である。その言葉を語った偉人の能力がほんとうに低かったわけではない。

 やはり、能力の高い人を生かしきるためには、それだけの智慧や努力、システムも必要である。

 上に立とうとする者は、光明思想を甘えの論理に使ってはならない。

 大川隆法総裁は、『常勝の法』で以下のように説かれました。

「「自分に能力がなくても、自分のまわりに能力のある人を集めれば、よい仕事ができる」という考え方があります。これは鉄鋼王のアンドリュー・カーネギーが実践した考え方であり、彼は自分の墓碑銘にもそうした意味の言葉を刻んでいます。
 「自分には能力がなかったが、まわりに有能な人を集めたので成功した」というのは、確かに謙遜の言葉としてはよいと思います。ただ、当時はいまほど学校教育が発達していなかったので、優秀な人であっても、よい学校を卒業していないことがよくありました。彼がよい学校を卒業していないのは、チャンスを得られなかっただけであり、能力が低かったわけではないのです。
 彼の謙遜の言葉を、「どんな人でも、能力の高い人を使えるのだ」という意味に取ったならば、それは間違いになります。やはり、そう簡単に人を使えるものではありません。能力の高い人を生かしきるためには、それだけの智慧が必要です。また、努力も必要ですし、システムも必要です。
 勇気の原理として光明思想的に使える考え方が、ある程度以上の規模のものにおいては、甘えの論理になったり、無責任の論理になったりすることもあるのです。上に立つ者は、このことを厳しく受け止めなければいけません。
 人間は、自分の能力、蓄積、努力、それから、自分を支えるものの力、総合力、天の時、地の利など、いろいろなものを見定めていかなければならないのです。」
(261~262ページ)

 

光明思想の落とし穴

 理想を描く時の注意点として「放漫経営」の問題があります。

「会社が倒産する原因は、ほとんどが放漫経営ですが、その放漫経営のもとにあるのは、私がときどき槍玉に挙げている「光明思想」的な考え方です。

 ただ、ある程度、光明思想的な考え方ができないと、経営者、特に一代で企業を起こすような人にはなれません。

 例えば、「この事業の未来は明るい」と思うものに賭けたり、人を信用したりできることが必要です。「この人は成功して立派になるのではないか」「この人は幹部や重役になれるのではないか」という目で人を見て、期待をかけられるような経営者でなければ、企業は大きくならないのです。

 特に、創業者は、そういうタイプであることが必要であり、「人を見たら泥棒と思え」というような目で見ていては、企業は大きくはなりません。

 したがって、光明思想型の人、つまり、「未来には明るいことが来るのだ」と思っている人でなければ、起業家にはなれないのが普通です。

 しかし、そういう人が失敗する原因は、ほとんど放漫経営なのです。「何とかなる」と、楽観的に考えがちであるため、「三ヵ月後には、何とか資金繰りができるのではないか」などと思って、手形を切り、結局その手形が落ちなかったりするわけです。

 発展的なものの考え方を持つことはよいのですが、この経理・財務的なところに関して、きちんとした哲学を持っていないと駄目なのです。

 「入ってくることを期待して、出るものを決める」という人は、経営者としては倒産するタイプです。「将来、お金が入ってくる」ということを前提にして、先にお金を使う人は多いでしょう。人類の比率としては九割がそうです。「あとでお金が入ってくる」と思って、先に使ってしまう人は、比率としてだいたい九割はいます。

 こういう人は、「給料を貰う側」にいたほうがよく、「給料を払う側」になると危ないのです。給料などの人件費も、事務所の経費も、毎月毎月出ていくものです。ですから、「毎月入るだろう」と思って、払うほうだけを先に固めるような人は、基本的に倒産するのです。

 発展的な思い自体はよいのですが、お金を中心とする実務においては、逆に考えて、「出ずるを制して入るを量る」というのが基本戦略です。

 また、放漫経営の もう一つの原因としては、仕事能力のない人たちに、不相応な役職を与えてしまうことがあります。役職が付くと、部下をたくさん持ちたがりますし、次には、店や事務所などを持ちたがるようになります。そのように、社員に優しすぎると放漫経営になりやすいのです。」(『未来創造のマネジメント』P-176180)

 光明思想の問題点は、裏付けのない無謀な行動に転じやすいことです。

もう一つの問題点としては「反省の不足」です。

 ヤオハンのような例に見られるが、生長の家型の経営学は、一本調子の脇の甘い光明思想に貫かれ、無反省な天狗型経営になりがちです。科学性・学問性から見ても、智慧が不足していると言えます。生長の家の影響を受けていなくても、「反省の不足」は経営者独特の習性とも言えます。

「一般的に、経営者は天狗になってしまうことが多く、胸を張って威張っている人が少なくありません。基本的に反省できないか、反省したくない人たちなのです。そういう人が経営者になり、従業員を使って 威張っていることが多いわけです。」(『智慧の経営』P-88)

 逆に言えば、ただでさえ反省しない傾向のある社員が、成長の家などの光明思想の影響を受けると、ますます反省が出来なくなることになります。光明思想は発展の原動力になり得るのですが、それだけではブレーキの故障した自動車のように、やがて会社を破滅へと導くことになります。

 放漫経営のもう一つの原因としては、仕事能力のない人たちに不相応な役職を与えてしまうことがあります。無能な人を上につけてしまうと、影響が広がってしまいます。

 親戚だから、古株だからという理由で重要な役職に不適切な人をつけると、経営が傾く原因になる。人事には厳しい判断が必要になります。

「経営者は、ときには私情を殺さなければいけません。「小の虫を殺して大の虫を生かす」ということが出来なれれば、中小企業の経営者以上のレベルには行かないのです。「人の道に反するような気がして、どうしてもできない」という人がいるかもしれませんが、それは思い上がりです。そういうことが出来ない人には、多くの人々の生活を預かる資格がないのです。

 これは、軍隊において、隊長が甘い判断をした場合に部隊が全滅するのとまったく同じです。隊長は厳しい判断をしていかなければならないのです。

 零細企業から中小企業へ、中小企業から大企業へと発展していくときの最大のネックになる部分は、おそらく「人材の落ちこぼれ」との闘いのところです。この問題と闘わないかぎり、企業は大きくなりません。」(『経営入門』P-194~195)

 規模に見合った適切な人材をその都度発掘していくことが大切です。

「経営者として成功していくためには、厳しい経営判断を一種の「禅機(悟りを得る機会)」として、不退転の心境を磨いていかねばなりません。

 「鋭さ」「厳しさ」そして「智慧」といつたものを持たなくては、小さな会社であっても社長は務まらないのです。」(『経営入門』P-161)

 経営者には人柄のよさが必要である。しかし、その優しさが経営判断の甘さにつながると、倒産の原因になる。経営における「優しさと甘さ」は、身内の処遇に表れる。気を付けたいポイントです。

 

光明思想と常勝思考

 幸福の科学大川隆法総裁は、『経営入門』で以下のように説かれました。

「光明思想は甘みがあるので。食べると誰もが喜びます。ただ、飽きがくることがあります。一時期、光明思想によって救われたような気持になっていても、次第に飽きてくることがあるのです。

 ところが、常勝思考は旨みを追及しているので、飽きません。常勝思考は、そのなかに「光明思想」と「反省」の両方を織り込んでいるため、人生の至るところで学びがあり、発展があると言えるのです。」(P-220~221)

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