自分の能力や自分の将来に関する自信、達観

 30歳ぐらいで部下を持ちはじめると、「人を使っての成功」が必要になり、「人を使える」ことが大事になるが、才能のある人は、えてして人を使えない。

 逆に、それほど才気走っていない人のほうが、「機敏な人や才能のある人を見つけて、その人を使っていく」という能力が出てくることがある。

 そのためには、自分の能力や自分の将来に関する自信、達観のようなものが、ある程度、必要となってくる。

 幸福の科学大川隆法総裁は、『希望の法』で以下のように説かれました。

「人生の比較的早い段階、若い年代で、成功の道を走っているように見える人は、人の目につく才能が出てきやすい面があります。若くして成功の道に入り、成功者の仲間に数えられる人は、頭の回転が速く、とても器用で、機を見るに敏です。そうでなければ、十代や二十代で、「あの人はできる」という評判が立つことはないでしょう。
 ただ、そういう人にも二種類あって、それ以上に才能が伸びていかない人もいます。
「小器用で頭の回転が速い」という能力があっても、それ以上に才能が伸びていかない人の場合、その人に対する評価が、どこかで逆転していきます。ちょうど、部下を持ちはじめたころから逆転していくのです。
 担当者として自分一人でやっている分には、とにかく仕事ができる人、腕が立つ人が高く評価されます。ところが、部下を持つようになったあたりから、評価基準が変わってくるのです。部下を持ちはじめると、「自分一人の成功」では済まなくなり、「人を使っての成功」ということが必要になるわけです。
 そのため、「人を使える」ということが大事になるのですが、才能のある人は、えてして人を使えません。才能がありすぎると、人を見て、「あいつも駄目、こいつも駄目」と思うので、“使えない人”のほうが多くなってくるのです。
「自分で手仕事風にやらないと、どうしても納得がいかない」という人は、なかなか人に任せられません。「任せられないがゆえに部下が使えない」ということがあるのです。
 逆に、それほど才気走っていない人のほうが、「自分は、そんなに器用ではないので、才能のある人に任せよう」と考えるようになります。「自分は、あまり器用ではない。それほど、早業が使えるわけでもないし、機敏でもない」と思っている人のほうが、むしろ、「機敏な人や才能のある人を見つけて、その人を使っていく」という能力が出てくるのです。
 この辺の見極めは三十歳ぐらいがスタート点です。そのころから最初の転換点が少し出てきます。
 したがって、人を使える人と、そうでない人とは、三十歳ぐらいまでは区別がつきません。両者とも、ある程度、有能であり、序列はついているのですが、その序列がほんとうのものかどうかは、三十歳ぐらいまでは、まだ分からないのです。
 三十歳を過ぎても、まだ自分が脚光を浴びることに全力を尽くしているような人は、どちらかというと、才能に溺れていく傾向があります。
 その一方で、三十歳あたりから、「どうすれば人に伝えられるか」「どうすれば人に仕事をしてもらえるか」ということを考える頭を持つ人が出てきます。
 そういう人は、それまでは、才気走っていた人の一人ではあったのですが、三十歳前後になると、自分の才気や才能を見せびらかすのを抑えるようになってくるのです。
 それを抑えるためには、ある程度、「自分には、まずまずの能力がある」と自分自身で納得することが必要です。「自分には、どのくらいの能力があるか。自分は、だいたい、どのくらいまでの仕事をなしていけそうか」という、自分の将来に関する自信、達観のようなものが、ある程度、必要なのです。」
(218~223ページ)

経営と真理 へ

「仏法真理」へ戻る