学校秀才

 塾や予備校通いで勉強のハウツーに精通した要領のいい人たちは、同じ時間内でやるときの効率の良い方法に精通しているだけであり、超一流にはなれない。

 そういうタイプは、創業経営者、新しい分野を開拓する研究者、発明家、冒険家など、まったく新しい局面や環境で定まった答えがない分野では、通用しない。

 そういう分野では、孤独のなかにあって、独自の方法を自分で考え、編み出した人や、独学で苦しんだ人のほうが、意外にやっていけるものである。

 幸福の科学大川隆法総裁は、『知的青春のすすめ』で以下のように説かれました。

「彼らは、大学一年から勉強していて、さらに予備校へも行き、試験に出るところを一生懸命に教わっているわけです。
 「そんな勉強の仕方があるのか」と思ったけれども、さらに遡ってみたら、彼らは、高校でも中学校でも小学校でも、塾などで、受験の合格を目指した勉強の仕方を教わっていたようなのです。当時、「なんて要領のいい、賢い人がいるんだろう。よっぽど、生まれつき頭の良さに差があるのかなあ」と、ずいぶん思いましたね。
 ところが、その後、社会に出て見てみると、頭の良かった人たちは大して偉くなっていません。「なぜ、あんなに頭の良い人が偉くならないんだろうか」と思ったけれども、「要するに、彼らは“ハウツー”に精通していただけだ」ということが分かりました。
 彼らは、「同じ時間内でやるときには、こういうやり方をしたほうが効率が良い」ということには精通しているのだけれども、第1章で述べたように、何かに没頭し、深いところまで突きつめていくようなタイプではないので、要するに超一流のところまでは抜けていけないんですよね。
 彼らの能力は、評価してくれる人がいる場合に発揮される能力なんです。「この仕事を、いつまでに仕上げてくれ」と言われ、「はい」と返事をして、「期限までにパシッと出来上がる」というようなとき、要するに、評価してくれる上司がいるときには役に立つ能力なんです。
 しかし、自分が、例えば経営者のようにトップに立つと、自分で全部を考え出さなくてはいけなくなります。すなわち、新規のことを考え出したり、経営計画をつくったり、「会社をこのように持っていきたい」「未来をこうしたい」などということを考えたりするような段階になったら、全然、手本がないので、いわゆるハウツーが効かなくなるんですよね。
 そうすると、孤独のなかにあって、自分で独自の方法を考え、編み出した人や、独学的にいろいろと苦しんだような人のほうが、意外に、トップとしての孤独に耐え、自分の判断を信頼して、やっていけるようなところが出てくるのです。
 「要領の悪かったはずの人たちに、オリジナリティー(独自性)が出てきて、逆に、要領の良かった人たちに、ある意味でオリジナリティーが出ない」ということになっていくのです。
 そういう、要領の良かった人たちは、誰もが使う、オーソドックスな“兵法”を使っていただけなので、まったく新しい局面や環境が出てきて、「どうするか」となったときに、すなわち、「定まった答えがない」という状況に直面したときに、評価が引っ繰り返ってくるんですよ。
 「公務員になったり、大企業で、ある程度まで出世したりする」ということだったら、そういうタイプでも十分にやっていけるんだけれども、創業経営者になったり、研究者として新しい分野を開拓したり、発明家になったり、冒険家になったりするようなときには、そういうタイプは通用しないわけです。」
(69~73ページ)

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