社長は自分に厳しくなければならない

 通常、お金を稼ぐと、稼いだ人がその使い道を考えることになる。しかし、お金を稼ぐ才能と使う才能が違うことが多いため、お金の使い方のところで失敗するケースが多く見られる。

 個人の贅沢に使ってしまうことは論外だが、十分に検討していない新規事業に大金をつぎ込んだり、本業と関係ない部分で無駄な投資をしたりすると、経営が傾いていく。また、見栄で過大な投資をすることも戒めなければならない。その意味で、は自分に厳しくある必要がある。

 経営者が負っている責任は、従業員のそれとは根本的に異なる。社会的に大きな責任を負っており、それゆえに厳しさが求められる。

 幸福の科学大川隆法総裁は、『経営入門』で以下のように説かれました。

「幸福の科学では「与える愛」の教えを説いていますが、事業経営者にとっての「与える愛」には、自分に対する厳しさ、仕事に対する厳しさ、自社の商品に対する厳しさなどが必要です。そういうことを追及する厳しい目こそが、世の中や従業員を生かしていくことになり、それが愛になるのです。

 経営者は普通の人とは違うのです。経営者は指導者なので、自分に厳しくなければいけません。自分の能力にも厳しく、精進にも厳しく、目標も厳しくなければいけないのです。自分にきびしくあってください。

 そして、仕事を徹底的に追及していくことです。夜は眠れないところまで行かなければ本物ではありません。営業系統であれば、血尿が出るところまで行くぐらいの覚悟がなければ本物ではありません。そこまで行かないようでは、「仕事をしていない」と言わざるを得ないのです。

 したがって、自分の器以上に発展しようと考えてはいけません。発展を願うならば、自らを鍛え抜かなければならないのです。先々のことを考え、厳しく自己投資をしなければいけません。

 そういう日々の闘いこそが経営者としての本分であり、使命なのです。その使命を悟り、遂行することです。

 生半可な気持ちでやるのであれば、規模を小さくして、現状維持で逃げ切ることです。あるいは、自分の能力では無理だと思うなら、会社を売り渡すことも一つの方法です。

 経営の才能には、やはり天性のものがあります。少なくとも、「お金を儲ける力」と「お金を使う力」を持っていなければ、事業としては続けていくことができません。それを肝に銘じてください。」(P-319~321)

 

公私の区別は結果責任

 どのようにして公私の区別をつければよいのでしょうか。実践経営的な立場からは、次の世事実を知っておく必要がある。

 大川隆法総裁は、『経営入門』で以下のように説かれました。

「一般的には、会社が発展期にあって、利益がどんどん出ている場合には、経営者が公私の区分に関して責任を問われることはほとんどありません。

 経営がうまくいっている場合は、「結果オーライ」であり、「社長のゴルフは私用なのか公用なのか」ということを問われるということはまずないと言ってよいでしょう。

 それを問われるのは、経営が傾いたときです。採算がトントンであったり、赤字が出たり、潰れたりした場合には、急に周りの目が厳しくなってきます。「このような結果になったのは、そもそも社長が公私混同をして、毎日のように社用でゴルフばかりしていたからだ」など、いろいろなことを周りから言われ、抗議を受けるのです。

 経営者は、公私のけじめのところを結果責任として責められます。「経営の結果が悪ければ責任を追及され、結果がよければ あまり責められない」というのが普通です。

 経営がうまくいっているときには、経営者が公私の問題で批判されることはありませんが、経営が傾いたり、会社が倒産した場合には、とたんに周囲の目が厳しくなってくるのです。

 経営者が逮捕されたりするのは、ほとんどが倒産したときです。経営が黒字の場合に経営者が逮捕されることはほとんどありませんが、会社が倒産したときには、あらゆる点で責任を追及されます。」(P-265~268)

 

自らに厳しく、他の人に優しく

 「上、三年にして下を知り、下、三日にして上を知る」。

 結局、部下は上司の「何」を見ているのか。

 周囲に支えられていることに感謝しているか。意見を聞き入れる謙虚さがあるか。部下の心を理解しているか。この3つの視点から、「ついて行きたい」と思われる上司について考えてきた。

 大川隆法総裁は、著書『鋼鉄の法』の中で、真のリーダーの資質についてこのように説く。

「やはり、トップがどのような人かをよく見極めなければいけないでしょう。それが『独裁者なのか』、それとも、『能力が高くて、本当にリーダーになっており、その人がいなかったら、みなをまとめていけないのか』というところの見極めが大事だと思うのです。

これらのどこに違いがあるかというと、『そのトップが、いざというときには自己犠牲の精神を持っているかどうか。国民を救うためだったら、自分は犠牲になってもいいという気持ちを持っているかどうか』というところです」

 

自己犠牲のリーダー

 歴史を振り返ると、自己犠牲の精神を持つさまざまなリーダーが存在する。

 例えば、日露戦争を戦った広瀬武夫中佐。旅順港閉塞作戦の最中、姿の見えない部下を救助するため、沈みゆく船に戻って命を落とし、「軍神」として讃えられた。

 第二次大戦の転換点となったミッドウェー海戦で、空母「飛龍」を指揮した山口多聞中将も、大義のために自らの命を惜しまなかった。空母が総攻撃を受ける中、総員に退艦を命令し、自身は艦と共に海に沈んだ。

 最後は全ての責任を一人で負い、いざとなれば命を懸けるくらいの覚悟までできているか。リーダーには、それが問われる。

 

刀剣のように自らを鍛える

 全ての責任を負うためには、その責任を果たせるだけの「器づくり」が不可欠だ。体力の増強、知識や経験の蓄積などを経て、実践で使える「智慧」を得ることが求められる。

 ただ、どれだけ努力をしても人間一人ができることには限りがある。より大きな責任を果たそうとすれば、他の人々の力を借りる必要がある。だからこそ、共に働く人たちへの感謝の思いや謙虚さが自然と湧いてくる。多様な個性や強みを持つ人たちへの理解が求められる。

 自らへの厳しさと他の人々への優しさのバランスの中で「人望力」は生まれ、大きくなっていく。

 オーナー社長の子息など恵まれた境遇に生まれたとしても、こうしたプロセスを経なければ人の上には立てない。貴い身分として生まれた人が地方を流浪し、苦難を経験した後に王様になる「貴種流離譚」のように、数々の試練を乗り越えなければならない。

 刀剣が何度も灼熱の炎と冷たい水をくぐり、鎚で叩かれる中で姿を現わすように、自らを鋼鉄の如く鍛え上げる。同時に、共に人生を歩む人々を包み込むしなやかさも身につける。その背中に、部下はついて行きたいと思う。

 厳しさと優しさのリーダー学に終わりはない。

参考

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