仕事の原点

 近年、「ライフ・ワーク・バランス」(仕事と生活の調和)が叫ばれるようになり、労働時間の短縮を促す動きが広がり始めている。労働者が心身共に充実した状態で意欲と能力を十分に発揮できるためには、労働時間の短縮が欠かせないという。

 しかし、ここに一つの落とし穴がある。それは、単に労働時間を短縮すれば幸福が保証されるわけではないということである。無論、長ければ幸福になるわけでもない。問われるのは、労働時間の短縮ではなく、仕事の意味をどうとらえるかであろう。仕事を苦役だと思えば短いほうがよいだろうし、仕事を尊いものとみなせば、別の結論が出るかもしれないのです。

 成功経営学では、仕事を尊いものであると考える。日々の糧を得るために課せられた苦役などではない。この前提に立っていることを深く理解しておく必要がある。

 幸福の科学大川隆法総裁は、自著『仕事と愛』のなかで、「仕事をしたいという気持ちは人間の天分である」と述べています。

 人間は、動物と違って材料を使って様々なものを考え、つくり出す力を持っています。動物より早く走る自動車をつくり、夜も活動できる電球をつくりました。「仏が自分と同じような創造の喜びを人間に与えようとして、仕事というものを与えたのだ」(『仕事と愛』より)という言葉を心に刻みたいものです。

「私の著書に、「人材論」を中心に説いた『仕事と愛』という本があります。
 まず、『仕事と愛』の第1章「仕事の本質」では、「仕事をしたいという気持ちは人間の天分である」「それは後天的に与えられたものではなく、人間として生まれついたということ自体に伴っている天分である」と述べています。これをよく理解してください。
 人間がこの世に生まれてきたのは、仕事をするためなのです。しかも、仕事とは、「世のため、人のため」に役立つものです。人間は生まれつき、「役に立ちたい」という気持ちを持っているのです。まず、この原点を知らなくてはなりません。
(『経営入門』より)

「「誠実さ」や「真面目さ」、「できるだけ公平無私であろうとする態度」でしょうか。こういったものを持った人が望ましいなとは思いますね。あまり裏表がないタイプのほうが、よろしいとは思います。
 全体的に見るのなら、「その人のところに部下を預けておけば、結果として、必ず人材が育ってくる」というような人はいいですね。仕事において、「本人がプレーヤーとして点数を入れることができる」というだけではなくて、「その人に預けておくと、人材が育ってくるような人」というのは、やはり評価されるべきではないかと思うんです。
 トップが「自分の息子を預けてもいいかな」と思うような人にならないと、やはり、人材としては育っていかないのではないかと思います。
(『教育者の条件』より)

 実際に成功した経営者は、仕事に生きがい、やりがいを感じている。松下幸之助はこう言っている。

 「言うまでもなく、仕事は、お互いの人生において、時間的にも経済的にもきわめて重要な位置を占めています。そうしてみると、生きがいは多様であってもよいと言うものの、自分の仕事に生きがいが感じられるかどうかということは、お互いの人生において、場合によっては、その幸不幸を左右するほどの大きな意味を持っていると考えられます。

 したがって、趣味を楽しむことも、家庭を大事にすることも、その他いろいろな面で生活内容を多彩にしていくことも、それぞれに意義深く大切なことだと思いますが、その中心にというか、その根底に、仕事に打ち込み、仕事に喜びと生きがいを感じられるということが やはりなければならないような気がします。」

 そもそも仕事とは何かを考えてみましょう、そこには自己中心の考えはありません。働く対象である「事」が先にある。それに仕える。まさに奉仕、布施行です。仕事を奉仕ととらえて働けば、「三輪清浄三輪空寂」の布施となり、めぐりめぐって豊かさが自分のところにくることになるのです。

 経営者がこのような仕事思想を持っていると、その考え方が従業員にも伝播していく。従業員も仕事を尊いものと考え、積極的な姿勢で仕事をするようになる。創業者が活躍している間に、従業員も昼夜問わず猛烈に働くことが多いのはそのためである。

 ビジネスのなかであっても、万象万物によって、大宇宙の意志によって、自分が生かされているという視点を抜きにした ほんとうの意味の成功はない。

 高みに上れば上るほど、崇高な精神に近づいていけばいくほど、ますます己を空しゅうし、低くしていくようであってほしい。

 崇高なるものへ敬意を払う気持ちを決して忘れてはいけない。

 幸福の科学大川隆法総裁は、『成功の法』で以下のように説かれました。

「「自分は仕事ができる」と思うようになってきたとき、そこに一つの落とし穴があると思って間違いないのです。なぜなら、それは大きな慢心を招くことにもなりかねないからです。自分が、その小さな社会において、まるで「井のなかの蛙」になったような状態になりやすいからなのです。
 世界は広いのです。世間は広いのです。そして、この大宇宙は広いのです。みなさんは、ビジネスのなかの勝利感に酔うだけではなく、ときおり、そこから抜け出す必要もあります。ふと夜空を見上げて、大宇宙の神秘を考えてみる必要もあるでしょう。また、この大宇宙の法則について考えてみる必要もあるでしょう。
 「人間は、何ゆえに生まれ、何ゆえに死んでいくのか。過去の多くの人々の営みというものは、いったい何であったのか。自分の生涯もまた過ぎゆくものであろうけれども、さて、自分の人生とは、いったい何なのか」ということについて、思いを巡らしていただきたいと思うのです。
 ここで、みなさんにお願いしておきたいことがあります。
 それは、「『崇高なるものへ敬意を払う』という気持ちを決して忘れてはいけない」ということです。特に、経営者の立場に近づいていけばいくほど、多くの人の面倒を見なければいけない立場に立てば立つほど、「崇高な精神に対して帰依する」という気持ちを忘れてはいけないのです。人知を超えたものへ帰依する気持ちです。
 「仏や神と言われるような、高次の意識があるのではないか。自分は、自分というものを万能の人間のように思っているけれども、自分を小さく見下ろしているような、巨大な存在があるのではないか」という考えを持っていただきたいと思います。
 これは、裏を返せば、「謙虚な気持ちを忘れない」ということでもありましょう。階段を上れば上るほどに謙虚となるような、あなたがたであってほしいのです。一歩一歩、高みに上れば上るほど、崇高な精神に近づいていけばいくほど、ますます己を空しゅうし、低くしていくような、そういうあなたがたであってほしいのです。
 次々と目標を実現すればするほど、大いなる目標が湧き出でて、みずからの至らなさ、力の足りなさが実感されるような、あなたがたであってほしいと私は思います。
 「自分が、いかに生かされているか。万象万物によって、大宇宙の意志によって、いかに生かされているか」という視点を抜きにした成功というものは、ビジネスのなかにもないと思います。それは数字の上だけの成功であって、ほんとうの意味の成功ではないからです。
 数字の上で、いくら業績をあげたとしても、あなたも、やがてビジネスの社会から消えていくときがあるでしょう。そのときに、「いったい何が遺ったのか。自分という存在は何だったのか。自分という存在がなかったとして、どうだったのか」ということです。こういう視点を忘れてはいけないのです。」
(147~151ページ)

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