教育の目的

 学校の持ついちばん大きな機能は、勉強の仕方を教えることである。

 また、教師は、担当教科以外にも、生徒がその後の人生で迷ったり苦しんだりしたときに役立つ、「ものの考え方や判断の仕方、努力の仕方」等を教える必要がある。

 教師は、「社会人になったときに世の中を立派に生き渡っていける子に育てよう」という気持ちで、人間関係の結び方や対人関係の問題解決の仕方を教えなくてはならない。

 幸福の科学大川隆法総裁は、『教育の法』で以下のように説かれました。

「現在の教育を見ると、「中学校や高校で学んだことそのものが、最終的に、実社会でも使える」ということは、あまりありません。そうすると、「なぜ、人生において大事な十代という時期に、一生懸命に勉強する必要があるのか。中間テストや期末テスト、実力テストや模試などを受けて学力を得ることに、いったい、どのような意味があるのか」ということは、当然、問われるでしょう。
 ただ、自分自身の体験を振り返ってみたときに、学校の持ついちばん大きな機能として感じられることは、「勉強の仕方を教えてくれた」ということです。これが、やはり大きいのです。
 実社会に出てからは、自分独りの闘いというか、個人での勉強になるわけですが、その前に学校で、「どのように勉強をしたらよいか」という、勉強の仕方を教わったことは、大きかったと思います。
 実社会においては、自分の専門の仕事に合わせたものを勉強しなければいけませんが、それに適した学校が必ずしもあるわけではなく、自分独りで勉強しなければいけないことが多いのです。
 すなわち、本を買ってきたり調べものをしたりして、自分で勉強しなければいけないことが多いのですが、そのときに、学生時代に培った「勉強する力」が、応用力となって生きてくるのです。
 その意味で、「学生時代に、勉強の仕方や努力のやり方を教えてもらった」ということは、非常に大きかったと考えています。
 学生時代と卒業後とでは、評価のされ方が違ってくるので、学生時代に学んだ内容ややり方は、そのままでは通用しないかもしれません。しかし、教育の目的について突き詰めて考えると、やはり、「実社会に出たときに、仕事ができ、社会的にも尊敬を受けるような人間」をつくっていかなければならないと思うのです。
 それでは、教育者である教師が念頭に置かなければならないことは何でしょうか。
 もちろん、自分自身に割り当てられた教科を教えることが中心になるでしょうが、その教科を教えつつも、「将来、この子が実社会に出たときに、よい仕事をして社会で認められるために、あるいは、上手な家庭運営をしていけるために、役に立つような教育をしたい」ということを、心の奥底で願い続けなければならないのです。
 今、教えていること自体は、直接役に立たないかもしれません。しかし、その子の心の糧になるもの、すなわち、その後の人生において迷ったり、仕事上で判断に苦しんだりしたときに役立つような、「ものの考え方や判断の仕方、努力の仕方」等を教えてあげる必要があります。
 あるいは、学校のなかでも、生徒同士の関係で問題はいろいろと出てくるので、そういうときに、人間関係の結び方や、対人関係の問題解決の仕方を教えてあげなければなりません。「社会人になったときに、世の中を立派に生き渡っていけるような子に育てよう」という気持ちが、心の奥底になければいけないのです。」
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