失明

 自分の環境や性格、肉体、能力の部分で、誰が見ても他の人と極端に違うときには、そこに人生の問題集を解く鍵がある。

 過去の転生でカルマをつくっていることもあるが、それを探ってもきりがない。

 過去世がどうであろうと、人間は、今回の人生を自分に与えられた問題集として捉え、その解答の努力をしなければならない

 幸福の科学大川隆法総裁は、『『心と体のほんとうの関係。』で以下のように説かれました。

「自分の環境、あるいは性格的、肉体的、能力的な部分で、他の人と極端に違う部分があるときに、それを単に悩みの材料として見て、そこからの出口だけを探してはいけません。
 誰が見ても、明らかに悩みの材料と思われるもののなかに、実は、あなたの人生の問題集を解く鍵がある場合もあるのです。あなたの魂にとっては、「目が不自由である」ということが、何らかの進歩を促す材料なのです。
 足が動かない人、手のない人、目が見えない人、耳が聞こえない人など、現在、身体的な不自由を抱えている人はたくさんいます。そういう人たちのなかには、過去の転生において、何らかの肉体的なカルマをつくっている人もいます。
 私は、リーディング(霊査)をすれば、五千年でも一万年でも、それ以上でもさかのぼって、ある人の過去世を何代前まででも探れるのですが、それを一つひとつ探ったところで、きりがありません。
 過去世がどうであろうと、人間は、今回の人生を、自分に与えられた問題集として捉え、「その問題集に、どう答えていくか」ということを考えて、そのために努力しなくてはならないのですね。
 問題集は一人ひとり違います。ただ、その人にとって、魂の学習に合った問題集であることだけは事実です。
 問題から逃れることばかりを考え、「与えられた問題を解きたくない」と言うのではなく、その問題のなかに潜んでいる意味を発見してほしいのです。
 「目が不自由だ」というハンディがあっても、どれだけ、光った人生を生きられるか、それを工夫してほしいと思います。目の自由な人たちが見て、「あの人が、あんなに立派に生きられるのだったら、私も、もっと頑張らなくてはいけない」と思うようになれば、あなたの人生は成功です。
 体が不自由であっても、あの世に還ると、それは治ります。不自由なのは、この世にいる、ほんの何十年かのあいだだけです。地上では、そういう
配役になっていても、そのなかに修行があるのです。
 他の人に迷惑をかけるかもしれませんが、お返しができることもあるはずです。「マイナスの面を考えずにプラスの面を見いだしていく」という努力をしてほしいのです。
 肉の目は見えなくても、少なくとも
心の目は見えるはずです。心の目でもって真理を見ていくことはできるはずです。そして、口が動くなら口で、耳が聞こえるなら耳で、何らかの「プラスの人生」を生み出せるはずです。
 それも、あなたに与えられた問題集なのです。どうか、今世において自力で解いてみてください。
 その問題集の模範解答は、あの世に還ったときに必ず示されます。なぜ、そういう修行をしたかということが必ず教えられますから、それまでのあいだは、とにかく、一生懸命、自分の問題集を解いていただきたいと思います。」
(172~177ページ)

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