呪いとは

そもそも「呪い」とは何か

 「呪い」とは何か。一言でいうと「『相手を不幸にしたい』という思い」です。

 あの人が妬ましい、不幸にしたい、人生を狂わせたい、殺したい もし、こうした思いを心に強く抱いていたら、それは全て「呪い」ということになる。そのような思いは発した時点で相手に届き、敏感な人には電話がかかってくる かのように感じられることもある。

 問題は、その念いが「強く繰り返し発信されていると、物質化してくる」ということです。

 幸福の科学大川隆法総裁はこう指摘する。

「私が見ると、病気の七割程度は霊障であり、死んだ人の霊として、悪霊とか悪霊とかいわれているものが来ていたり、小悪魔、あるいは、もっと大きな悪魔が憑いて起こしたりしている場合です。そうでない場合には、生きている人間で、自分が人生の途上で会った人に恨まれているようなことが病念をつくり出し、それが体に現れてくるケースも実に多いわけです」(参考『「呪い返し」の戦い方』)

 前者は「死霊」の呪いであるのに対し、後者は「生霊」と呼ばれる。

 生霊のメカニズムは、本人の念いと守護霊が合体して、相手に取り憑いてしまう。また、その念波に呼応する霊界の者(悪霊、天狗、悪魔など)が力を貸し始めることもある。

 くれぐれも注意が必要なのは、宗教的には「呪い」も「罪」にあたり、あの世で反省しなければいけないということです。

参考

病変、悪夢、事故が起きてくる

 呪いを受け続けると、病変や悪夢による疲労として現れることが多い。

 それ以外にも、不自然な事故や不運に見舞われることもある。

女性の念は左側男性の念は右側に

 興味深いのが、呪いの性質によって、怪我や変調が起きる体の部位が違うことがあることです。

 大川隆法総裁は、女性の念が来ている場合は、体の左側に現象が出ることが多く、男性の念が来ている場合は、右側に出ることが多い と説く。

呪いを生む六大煩悩

 呪いの発生源、すなわち、人の不幸を願う心の根っこにあるのが仏教でいう「煩悩」である。主な煩悩には、「貪・瞋・癡・慢・疑・悪見」の六つがある。

 「貪」は欲が過ぎること。「瞋」はカーッとくる怒りの心。「癡」は愚かであること。「慢」はうぬぼれること。「疑」は疑いのこと。「悪見」は思想的に間違っていること。

 こうした煩悩が先鋭化し、現象化したものである「呪い」を知ることは、自他の心の動きを知る教材でもある。

社会問題の裏に「呪い」あり

 「呪い」は、現代社会の至る所に存在する。

  「医師の宣告」も時に「呪い」に

 医師の悲観的な宣告も「呪い」になり得る。医学の神としても知られる古代ギリシャのヘルメス神は、大川隆法総裁の霊言において こう指摘する(『ヘルメス神と空海と魔法』)。

「減点主義で、悪い結果を思う者が多いから、病院に行ったら、『もう、九十パーセント死にます』とか、『もう、生存確率は一パーセントです』とか、『三ヵ月以内に死にます』とか、すぐ言われる。これは一種の『呪をかける』という行為に当たる。」

 特に、医師の余命宣告には正確な基準は存在せず、経験と勘でなされることが多いという。医師によっては、長く伝えることもあれば、短く伝えることもあるなど、その宣告自体は、極めて”あいまいなもの”だとも言えるだろう。

参考

生霊や呪いに翻弄されないための仏教的な心の教え

 生霊や呪いを祓う方法の本質は、一人ひとりの心のコントロールにある。話して解決することなら、言葉にして伝える。自分が変わるべきことは変える努力をする。神仏の視点から相手を理解することによって、葛藤を乗り越えることができるのです。

 仏教は、「貪り」の心を捨て、執着を断つことを教える。また、「怒り」の心を捨てて穏やかな、平静心を得ることを教える。さらに、仏神の教えを知らず、「愚か」であることにより不幸を加速させることも戒めている。

 人を呪うような心境で生きていれば、死んだ後に向かう先は地獄です。生霊や呪いの問題を生きているうちに克服することは、天国に還れる生き方にもつながるのです。

参考

 書籍『呪いについて』では、「『呪い』というのは、とにかく他人の幸福を壊したくなる、他人を不幸にしたくなる気持ち」と定義されている。この「呪い」を行動に表せば、周囲の人々を困らせ、傷つけることになる。また、その念波が現象化し、相手を苦しめることもある(生霊として)。

 そして、恐ろしいのが、その心に呼応し、あの世のさまざまな霊も「呪い」をかけてくるということです。そうした霊は、人間に憑依し、ネガティブな感情を増幅させ、人間関係や社会生活を破たんさせていく。その代表例が「悪霊」です。悪霊とは、人間として生きていたが、生前の誤った心や行いにより地獄に堕ちた存在。地獄は鬼や悪魔の責め苦、熱さ、寒さ、痛みなど、苦しみに満ちているため、彼らは「何とかして逃れる方法がないか」と考える。その方法が、同じ欲を持った地上の人間に憑依することなのです。その間だけ彼らは人間になったような気持ちを味わい、人の悪口を言ったり、暴力を振るったりして鬱憤を晴らす。あるいは、憑依した人や周囲の人々を不幸にし、自分の苦しみを紛らわせる。

 こうした存在は、悪霊以外に、天国にも地獄にも行けない浮遊霊(水子霊も含む)、天狗・鬼・仙人・妖怪・妖魔といった自己愛が強い霊であることもある。

 自分や身近な人に不自然な問題が起きた時は、こうした霊の「呪い」を想定し、祈願などで払うことで状況が改善することもある。しかし、大事なのは、あくまで本人の「呪い」が悪しき霊を引き寄せたということであり、最終的には自分自身の反省が鍵になる。

 苦しい時には辛いものだが、大川隆法総裁は、嫉妬して悪口を言うのは「自分の理想像を否定している」ことであり、もっと不幸になりかねないと説く。嫉妬する相手をあえて「祝福」することで、自分も幸福になる方向へと心の力が働くという。

 

「呪い」を感じたらまず自分を振り返ってみる

 不自然な不調や悪夢、事故などに見舞われた際、つい「この世的」な原因を探したり、偶然で片づけたりしてしまう人は多い。

 しかし、大川隆法総裁は、著書『「呪い返し」の戦い方』の中で、「『何かおかしいな』と感じ始めたら、『誰かの恨みを買っていないか』とか、『悪意を持たれていないか』とか、『嫉妬をされていないか』とか、そういうこともいちおう振り返る必要はあると思います」と指摘する。

 そして、「呪い」の心当たりがあれば、「自分に原因がある場合もあるので、反省したり和解したりと、この世的な努力をするところはすることが必要」と説く。

参考

「善念」と「鏡の瞑想」

 総裁は、呪い・生霊を退散させる方法として「常にゆるやかに善念を発し続けることも大切」とも語る(『生霊論』あとがき)。生霊は得てして自己中心的です。心を利他の方に向けることで、呪いの念波と「同通」しなくなる。

 また、総裁は、心に満月を描く「満月瞑想」を行った上で、「自分の心をツルツルに磨き、鏡のごとく跳ね返るようにすることを常にイメージして、努力する」という「鏡の瞑想」を行うことも、「呪い返し」には有効と説く(『「呪い返し」の戦い方』)。

 

心を磨いた上で祈願で助力を得る

 「呪い返し」というと、映画や小説で描かれる”壮絶な念力対決”のイメージもある。確かにそうした局面もあるが、あくまでこうした内省的な修行がベースとなる。

 その上で、特に強力な「呪い」については、幸福の科学の祈願・修法で神仏の助力を得ることで、さらに「呪い返し」の力は増すだろう。

 仏陀の教えをしっかりと学び、自らの心を見つめ、正していくことで、生霊や悪霊から自分を護ることができ、それを打ち返すことができるということです。

「仏法真理」へ戻る