仕事ができる人・できない人

 勉強ができる人間の先にあるものとして、仕事ができる人をつくりたい。

 仕事ができる人とできない人の違いは、一つには本当に世の中のためにお役に立ちたいという情熱を持っているか である。

 もう一つは、いかに創造的なものの考え方ができるか である。

 幸福の科学大川隆法総裁は、『真のエリートを目指して』で以下のように説かれました。

「私は、「勉強ができる人間」の先にあるものとして、「仕事ができる人間」を、ぜひつくりたいのです。
 「勉強ができても、仕事ができない」という人は世の中に大勢います。「勉強ができても、仕事ができない人」と、「勉強ができて、仕事もできる人」とがいるのです。この違いを普通の学校では教えてはくれません。
 では、「仕事ができる人」と「できない人」の違いは、どこにあるのでしょうか。
 一つは、「本当に、『世の中のために、お役に立ちたい』という情熱を持っているか」ということです。
 もう一つは、実は、「いかに創造的なものの考え方ができるか」ということです。
 これからの時代においては、「新しいものをつくり出す力」「世の中にまだない、これからのものをつくり出していく力」を身につけることが大事です。これを身につけることが、未来を拓くことに必ずつながっていきます。」
(40~41ページ)

 

若くても仕事ができる

 大隈重信の名を上げたのは、(英国公使の)パークスとの交渉で、語学的な知識と宗教論で押し返したことだった。これがまぐれでないことは、その後の大隈重信の人生が証明している。

 年齢が来たらできるわけではなく、若いころから志のある者は、ちゃんとした仕事ができるものである。

 幸福の科学大川隆法総裁は、『大隈重信が語る「政治の心 学問の心」』で、大隈重信の言葉(霊言)を、次のように伝えておられます。以下のように説かれました。

「パークスか。確かに、わしは若かったし、小役人と言やあ、小役人だっただろうとは思う。下っ端だよな。それで、向こうは、ものすごく傲岸不遜で有名な男だからな。「こんな下っ端を出してきた」っちゅうんで、最初から「もう相手にならん」と言いよるから、昼飯も食わさず、夕方までぶち抜きで交渉をやったのを覚えとるけどなあ。
 それで、名が上がって、自信がついたんだけどな。「あの傲岸なパークスに飯も食わさず、夕方まで押し込んだ」っていうので、有名になったんだ。
 あのときの原因は、キリスト教の弾圧だったかな。江戸時代の、異教の禁止がまだ残ってたんじゃないかな。それで、何か事件があって、向こうとしては、ほんの一捻りで潰すつもりで来たような案件だったと思うね。
 たまたま、「あいつは交渉力があるようだ」ということで私を紛れ込ませてくれて、それで、やり合ったんだと思うけど、向こうとしては、どんな感じかね。まあ、「窮鼠猫を噛む」かな。「ネズミかと思ってたら、けっこう歯向かってきたので、びっくりした」っちゅうとこかなあ。「日本人を舐めるんじゃねえよ」っていうとこだな。「自分たちのほうが先進国だ」と思って舐めてたけど、日本人の能力はけっこう高いんだよ。
 当時、塾形式ではあったかもしらんけど、勉強熱はけっこうあったしね。東洋の伝統的な学問もやってたし、外国語として蘭学や英語もやってたし、それから武士道もあったからね。決して、彼らと渡り合って負けるような、われらではなかったんだ。そういう武士がいないといかんと思うね。
 だから、私の名を上げたのは、たぶんパークスとの交渉だと思う。向こうが、日本を後進国と思って、ねじ込んできて、踏み潰そうとしてたところを、私が切り返した。あれは、やっぱり、語学的な知識があったことと、宗教論ができたことが大きかったと思う。
 向こうは、「信教の自由を守らなきゃいけない」と言ってきたんだけど、わしが、「キリスト教のおかげで、世界がどれだけ迷惑したか」っていうキリスト教の害をいっぱい並べ立てて攻撃したんだよ。それで、ちょっと、たまげたみたいなんだ。
 実際そうだろう? 重商主義の時代から、帝国主義、植民地主義の時代にかけて、キリスト教のおかげで、どれだけ植民地にされて奴隷がつくられたか。ねえ? 「『宣教師が侵略の先兵と化して、国を乗っ取っていく』ということを、ずっとやってきているわけだから、キリスト教について一定の制限をかけるのには、合理性がある」っていうことを言ったのさ。
 そうしたら、向こうは、そこまで言ってくるとは思わなかったので、参ったようではあるね。
 まあ、このへんが「金星」かな。つまり、幕の内に入ったばかりの人が、横綱と戦って勝ったようなことだな。
 でも、これが、まぐれでないことは、その後のわしの人生が証明しとるんであって、だから、「栴檀(せんだん)は双葉より芳し」(大成する人物は幼少時から優れていること)だ。
 君らだって一緒だよ。「年齢が来たらできる」っちゅうもんじゃない。若いころから志のある者は、ちゃんとした仕事ができると思うな。」
(39~43ページ)

 人生の目的は、今世において、どれだけ多く魂の糧を得て、人格の向上を果たし実在界に還るかであって、1年間で悟ることでもなく、1年間で地上を去ることでもない。

 たしかに、何かを1年間でマスターせよと言われれば、達成の早い遅いは必ずあるが、もっと長い射程に考え方を切り替えてみるとよい。そうすると、努力を続けていくうちに、「累積効果」(「蓄積効果」)によって、次第しだいに効果が出るのが早くなってくる。

 大川隆法総裁は、『常勝思考』で以下のように説かれました。

「みなさんのなかに、仏法真理の学習に関しては頭が痛い人もいることであろうと思います。「時間がなくて本が読めない」「試験の出来が悪い」などと、けっこう悩んでいると思うのですが、短期的に切ってみれば、人間には確かに能力の差があると思います。たとえば、何かを「一年間でマスターせよ」と言われれば、達成の早い遅いは、必ずあると思うのです。
 ただ、目的は、一年間で悟ることでもなく、一年間で地上を去ることでもありません。今世において、どれだけ多く魂の糧を得て、人格の向上を果たして実在界に還るかということが目的なのです。
 短期的に焦りを招いて失敗することは数多くありますが、長期的観点に切り替えていくと、いろいろな考え方があると思います。
 ものごとの達成度や能力を測るのに、決して一年間で切って測ることが正しいとは限りません。また、三年間、あるいは四年間で測ることも、正しいとは限らないのです。そうであれば、射程距離をもっと延ばしていけばいいのではないでしょうか。他人が一、二年勉強して飽きてしまうようなことを、投げ出さずに、もっともっと長い射程で考えていけばいいのではないでしょうか。そのように考え方を切り替えてみてください。
 そうすると、長距離ランナーに切り替えたはずであったのに、次第しだいに、結果としては逆になってきます。意外にも、意図したものとは逆に、短距離ランナーであったかのように、効果が出るのが結果的に早くなってくるのです。不思議なものです。
 この不思議さを現わしているのは、おそらく累積効果というものだと思います。蓄積効果と呼んでもけっこうです。本来は凡庸な方であって、「自分はなんとのろまなのか。なんと遅いのか」と思っても、努力して続けていくうちに、累積の効果、蓄積の効果というものが出てきます。それは不思議なものです。一定以上の修行、いわばためをつくっていくと、いままであれほど遅いと思っていた自分が、だんだん速く結果を出せるようになってくるのです。まことに不思議なことですが、そうした効果があります。
 麹菌とお米とを混ぜて寝かしておけば、やがてお酒になるのと同様に、おそらくは、瓶に入れてためるように、自分のなかに蓄積しておいたものが、ある時期になると発酵してくるのでしょう。思わぬところで発酵が始まって、それが力になってくるということがあるのです。そのような発酵の効果が出てくるまでには、一定の年数がどうしても要るように思います。
 他の食べ物などでも同じでしょう。何年間、寝かしたかということが、その価値になるものがあります。ワインなどのお酒でも、“○○年もの”などと年数で価値を表します。あるいは鰹節などでもそうです。鰹を食べるのであれば、生のほうがおいしいのかもしれませんが、鰹節にするのであれば、獲ってすぐのものではだめです。鰹を乾燥させて寝かして、カビが生えるのを待つのです。カビを生やしたもののほうが風味がいいからです。そうして熟成させていきます。
 そのように、一定の期間、寝かしていたものが、まったく別のものに変わる瞬間というものがあるように思います。」
(216~219ページ)

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