リーダーとなる秘訣

 真のリーダーになっていくためには、最初は個人としての能力が高くなければいけないが、ある程度のところで限界が出てくる。

 その限界を乗り越えるためには、自分が持っていない才能を持っている人を味方につけ、その人の献策を受けて、その策が正しいかどうかの判断ができることが大切です。

 そのためには、相手の人となりや能力、長所も弱点も知りながら、その人の運のパワーが分かることが大事です。

 幸福の科学大川隆法総裁は、『希望の法』で以下のように説かれました。

「真のリーダーになっていくためには、最初は、もちろん、個人としての能力が高くなければいけませんが、次は、頭のよい人をブレーンとして使えなければいけません。また、昔で言えば、戦が強い大将でしょうが、いまで言えば、腕利きの営業部長や、突出したナンバーワンの営業マンなどを揃えていくことが必要です。
 営業能力が高ければ、「商品力が低くても、どんどん売り込んでいける」という面があります。あるいは、参謀の能力が高ければ、「大した商品でなくても、上手な作戦で、うまく広告をして商品を浸透させ、シェアを取ってしまう」ということもあります。
 才能を持って立ち上がってくる人というのは、技術系なら、技術の能力がある人、営業系なら、営業能力の高いバリバリの営業マンで、会社からボーナスをもらうだけでは物足りず、自分で会社を起こす人などです。
 そのように、会社であろうと何であろうと、最初は、何か一つ才能があれば、それで一気に大きくなるのですが、ある程度のところで限界が出てきます。
 その限界を乗り越えるためには、結局、「自分にない才能のある人、自分が持っていない才能を持っている人を味方につけ、その人の献策を受けて、その策が正しいかどうかの判断ができる」ということが大切です。自分の頭のなかにはない考え方を人から示されたときに、「それが正しく機能するか否か」ということについての、ひらめき、判断、直感力が必要なのです。
 この直感が外れる人は駄目なのです。これが外れる人は、その段階で、だいたい終わりになります。
 自分にそれほど能力がなくても、直感力が正しい人、「これは、いけるのではないか」という勘が当たる人は、才能のある人を使っていけます。ここは難しいところです。
 では、どうすれば、「これは正しい」という勘がひらめくのでしょうか。それには、自分では、そういう考え方を生み出すことはできないにしても、相手の人となりや能力が分かることが大事です。
 たとえば、企画書を上げてくる人や営業をする人などについて、「この人ならば、ここまでやれる」という、能力の判断ができること、その人の長所も弱点も知りながら、「この人の持っている運勢、運のパワーから見て、こういう局面において、勝てるか、勝てないか」という見方で判断できることです。
 この判断力のある人が上に上がっていきます。最初は、個人に能力がなければいけないのですが、次は、それだけでは上に上がっていけないのです。」
(234~237ページ)

 

リーダーたるべき者

 赤心から奮い立ってくるような人間を、リーダーとして選べ

 真っ直で、真理に殉ずる人を、リーダーにせよ

 リーダーたるべき者は、自ら命を賭して、道を拓かねばならない

 大川隆法総裁は、『一喝! 吉田松陰の霊言』で、吉田松陰自身の霊言(霊の言葉)として直々に次のように伝えておられます。

「学問というのは魂が求めてやるものだ。親掛かりで、自らの保身と立身出世欲のためにやるものなんかではないのだ。
 学びたくない者は、やめればよろしい。
 全員、高校に行かせたり、補助金を出して大学に行かせたりする必要などない! 学びたくない者は去れ! 
 そういう者には、自らの生きる場が、ほかにあるであろう。
 学問というのは厳しいものだ。魂が求めて求めて、真理を手にしようとする。そこに道が拓ける。それを助けるのが学校の役割である。
 すべてが甘やかしにすぎない。
 また、すべてが幻覚にすぎないと思われる。ある学校を通過しただけで、秀才と思われ、天才と思われ、ちやほやされ、一生、出世が保障される。そんな蜃気楼のような国をつくっては相成らん。
 「学問の魂」に推参せよ! 求めない者は去れ!
 学ぶ心なき者に補助金など与えるなかれ! 学校をやめて働け!
 それが当たり前の姿だ。甘やかしがすぎる。
 まあ、その風潮が、幸福の科学の若者にも、ちゃんと流れているはずだ。
 勉強がすべての逃げ口上になり、やらざることの理由になっている。「勉強が忙しいので、できない」と言っている。
 その実、携帯電話を使って友達と何時間も話をしている。パソコンを使って遊んでいる。テレビを観ている。勉強なんか、してるふりだけで、実はしていない。
 親の脛をかじり、世の中に対して何らかの奉仕をしようとしていない。
 そういうやつらが山のごとくいる。この会だけではないがな。日本国全体に言えることではあるけれども。ただ、そういう輩が、数多く、二世会員、三世会員のなかにいると思われる。
 誠心から、真心から、赤心から奮い立ってくるような人間を、リーダーとして選びなさい。基準は、偏差値なんかではないし、家柄でもないし、外見でもない。魂がこの国を救わんとしている、そういう国士を、国の士を選んで、若者の、学生のリーダーとしなさい。
 さすれば、変わってくるだろう。
 あなたがたは幻想の世界を生きている。この世に出来上がった常識の世界を生きている。この世の価値観のなかから抜けられないでいる。
 だから、真っ直で、真理に殉ずる人を、リーダーになさい。
 勉強を言い訳にしたり、逃げ場にしたりするような人間、友達との友情を言い訳にする人間、親の無理解を言い訳にする人間、こういう者にはリーダーの資格はないのだ。
 リーダーたるべき者は、自ら命を賭して道を拓かねばならないと思う。」
(124~129ページ)

 

リーダーとなる秘訣

 リーダーとしての資質とは、安定感があること、それも単にレールの上を走っているようなものでなく、「どのような波風に当たろうとも、ぐらぐらしない」という意味での安定感である。

 そうした安定感をつくる一つは、過去の人間が、どのようなときにどのような事態に接し、それをどう解決していったかについての叡智を集積し、一段高い視点から物事を見、現在の事態を解決できることである。

 人間の精神は、鍛えれば鍛えるほど力や輝きを増していき、能力的に他人の何千倍、何万倍という発展がありえるのであって、精神的巨人になったならば、いまの自分には大問題でも、容易に解決できるようになるのである。

 幸福の科学大川隆法総裁は、『不動心』で以下のように説かれました。

「人生の苦悩は、ほとんどの場合、安定感を欠くところに原因があるように思います。
 みなさんは、自分がこれまでに会った人たちのなかで、どのような人を素晴らしいと思ったでしょうか。どのような人を大人物だと思ったでしょうか。どのような人を偉人だと思ったでしょうか。
 常に心がぐらぐらする人を、偉いと思ったことがありますか。怒ったり、泣いたり、喜んだり、一日のうちで気分がころころと変わる人を見て、素晴らしいと思いますか。「あの人のようにはなりたくない」と思うのではないでしょうか。
 みなさんが理想の人間だと感じるのは、「あの人のようになりたい。あの人に近づいていきたい」と思えるような人たちでしょう。そうした人たちの共通項は「生き方に安定感がある」ということです。
 リーダーとなる秘訣はここにあります。リーダーのリーダーたるゆえん、リーダーとしての資質とは、安定感があることです。その安定感も、単にレールの上を走っているような安定感ではなく、「どのような波風に当たろうとも、ぐらぐらしない」という意味での安定感なのです。
 そうした安定感をつくっているものの一つは、すでに述べたように、「叡智を集積している」ということです。すなわち、「過去の人間は、どのようなときに、どのような事態に接し、それをどう解決していったか」ということについての叡智を集積しており、それを当てはめて現在の事態を解決できることです。
 その際、「一段高い視点から物事を見ることができる」ということが大事なのです。
 毎日、気分が揺れて不安定なのは、結局、「自分が直面している問題と自分とが、がっぷり四つに組んで、どちらが勝つか分からない」という状況にあるからです。「自分が人生の勝利者になるか、それとも敗北者になるか、相撲が終わってみなければ分からない」という状況にあるからこそ、心が揺れるのです。
 問題をどう解決するかで悩む前に、問題をひと呑みするほどの大横綱になってしまうのです。そうすれば、小さな荷物を片づけるのは簡単です。普通の人なら背負って十歩と歩けないような重さの荷物でも、プロの力士たちは片手に下げて歩くでしょう。これと同じです。
 人間は自分を鍛えていけば、やがて大きな人間となっていけるのです。
 肉体の場合は、鍛えるといっても、その程度は限られています。しかし、精神の能力においては、偉人と凡人との差は非常に大きいのです。たとえば、ソクラテスと一般の人とでは、知力に大変な差があります。仏陀の叡智と一般の僧侶との差も、きわめて大きなものです。
 人間の精神は、鍛えれば鍛えるほど、力や輝きを増していき、限界がありません。肉体の力には限界がありますが、精神の力においては、他人の何千倍、何万倍という能力的な発展がありえます。
 そして、精神界の巨人となったならば、自分がいま手を焼き、「人生の死活問題だ」と思っていることが、いとも与(くみ)しやすいものとなるのです。」
(25~30ページ)

 

リーダーとして人生に必勝するための条件

 リーダーとして人生に勝利するための条件の二番目は、「胆力」である。

 宗教は胆力を鍛える王道の一つ。信仰心を持って、瞑想や禅定などの修行をし、精神力を鍛えていくとよい。

 不況期は、宗教修行をするのに非常によい。雌伏のときには胆力を練っていただきたい。

 大川隆法総裁は、『朝の来ない夜はない』で以下のように説かれました。

「二番目に挙げたいことは「胆力」です。
 胆力というのは古い言葉ですが、「忍耐力」と言い換えれば、少し分かりやすくなるでしょう。胆力とは、人間として耐える力のことです。
 今は、もちろん、会社として耐える力が必要ですが、個人としても耐える力が必要です。批判されたり、抵抗に遭ったり、障害物に遭ったりすると、簡単に挫けてしまい、すぐにあきらめるような性格の人が、好況・不況の波があるなかで生き残ることは、やはり難しいのです。
 苦しい時代には、胆力、精神力を鍛えることです。あるいは、会社としての志を見直し、鍛え直すことが大事です。
 そういう胆力が必要です。胆力を持っていただきたいのです。
 胆力のあるリーダーの下では、部下は、信頼してついていくことができます。しかし、打たれ弱いリーダーの下では、下の人も右往左往してしまうのです。
 胆力を練る方法はあるかといえば、あります。
 胆力の鍛え方はいろいろありますが、宗教は胆力を鍛える王道の一つです。宗教における信仰心教育のなかに、不動の信念をつくる要素があるわけです。信仰心を持って、瞑想や禅定などの修行をし、精神力を鍛えていくのです。
 不況期は、宗教修行をするのに非常によい時期です。
 もし、これから会社が暇になるようなら、当会の精舎などで精神の鍛錬に励んでいただきたいと思います。そうすれば、また、しかるべきときに、飛躍し、雄飛する時期が来ます。雌伏のときには胆力を練っていただきたいのです。
 そういうチャンスを与えられず、調子のよい状態だけが続くと、人は慢心していくのみであり、胆力を養うことはできません。苦しみの機会、自らを反省する機会を与えられることは、ありがたいことなのです。
 例えば、業績が低迷している会社の社長であるならば、「わが社をさらに鍛えてくださって、ありがたい」と考えることです。低迷するのは、「社長としての徳が足りない」と世間から言われているのと同じなので、自らを鍛え直す必要があるのです。
 精神力を鍛え、もっと大きな負担に耐えられるような自分をつくらなければいけません。社員が十人から二十人になろうと、五十人になろうと、百人になろうと、それを背負っていけるような力が必要です。それだけの中身をつくるために、自分を鍛えることが大事なのです。」
(117~120ページ)

 

上司としての責任感

 社長は、「すべては私一人の責任だ」と思っているからこそ、部下に対して、「かくあるべし」という要望ができる。これはたとえば、部長でも同様である。

 上司が責任逃れをするために「おまえがやれ」と言っているように感じたら、部下は働かない。部下をよりよく使うためにも、上の立場にある者(社長、経営者、経営管理者、経営担当者など)は、まず「自分に責任があるのだ」と考えなくてはならない。

 部下にやる気を起こさせるように、発案し、掛け声を出し、目標を出して“発電”するのは、上司である。

 大川隆法総裁は、『社長学入門』で以下のように説かれました。

「自分で考え、発案し、実行したことは、その結果に対して責任が生じます。その責任を受けて立たなければいけないのです。そういう意味で、社長が、「すべては私一人の責任だ」と思っているからこそ、部下に対して、「かくあるべし」という要望ができるわけです。
 上が責任を取らずに、下に対してだけ、「おまえたちがやれ」と言うのであれば、社員たちは、みな、社長が見ているところだけでは一生懸命にやり、それ以外のところでは手を抜くようになります。それは当然でしょう。
 上一人の責任ということになると、社長には、自分が直接にはやっていないことに対しても責任が来るわけなので、これは大変です。自分が見ていないことにも責任があると思っていればこそ、部下に対して要望をするわけです。
 社長は、役員を集めたり、部長を集めたりして、「このようにしてほしいのだ」と要望を出さなければいけません。これをしないと、責任だけが自分に来ます。「自分だったら、こうする」と思うことがあれば、「こうしてほしいのだ」という要望を出さなければいけないのです。
 要望を出さなかったならば、社長が望んでいるようにできなくても、しかたがないでしょう。しかし、「要望を出さなかったため、できなかったが、責任だけを自分が取る」というのは、ばかばかしいことです。
「自分ならば、こうしたい」という気持ちがあっても、実際の仕事は、他人の手を通じて行われるので、要望をしなければいけません。
 そのように、「責任を取る」という立場であるからこそ、要望をすることができるのです。部長でもそうです。部長が、「部の責任を取ろう」と思うからこそ、課長なり主任なり、下の者に対して、「こういうふうにしてほしい」と要望を出せるわけです。
 上司の要望を聞いた部下のほうは、「あの上司は責任を取ろうとしているから、仕事について、こういう厳しい指示や要求、目標が出ているのだ」と思います。「上司は、自分の責任だと考えているから、こういう要望を出しているのだ」と思えば、部下は、それに応えなければいけないと思うわけです。
 ところが、上司が責任逃れをするために「おまえがやれ」と部下に言っているように感じたら、部下のほうは、やっていられないでしょう。「私のほうを部長にしてもらわないと、そんな仕事はできませんよ」と思うことになります。
 その意味で、部下をよりよく使うためにも、上の立場にある者、すなわち、社長、経営者、経営管理者、経営担当者などは、まず、「自分に責任があるのだ」と考えなくてはなりません。
 部下にやる気を起こさせるように“発電”するのは、上司である自分なのです。それが、自分の発案であり、自分が出している掛け声であり、目標であるのです。「自分が責任を取らなければいけないのだ」と思えばこそ、その熱意が要望となって具体化し、下に降りていくわけですし、それに対して部下は応えてくれるようになるのです。」
(285~291ページ)

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