「燃えるような熱意」と「清らかな心」の両立

   未来への羅針盤 ワールド・ティーチャー・メッセージ No.269

 成功の要因として、「バーニング・デザイアー(燃えるような願望)」があると教えていただいています。一方で、「清く純粋に生きる」という心の清らかさも必要です。

 簡単に言えば、それはリーダーになる人とフォロワーとの違いだと思います。リーダーになる人は、人を引っ張っていかなければいけません。そのためには、進軍の旗印が必要です。旗を振らなければ人はついて来ません。

 その旗を振っている姿が、バーニング・デザイアーです。「どんなに苦労しても、こちらの方向に行軍して進んでいく。それが勝利への道だ」ということを指し示す人が必要です。リーダーなき集団は、羊の集団と一緒です。もうむごいもので、オオカミが1匹出てきただけで、散り散りばらばらになってしまいます。

 強い熱意を持ったリーダーがいないと物事は進みませんから、リーダーになる人が旗印に当たるものを持っていなければなりません。その旗印が何かを明確にするために、燃えるような熱意を示す必要があります。フォロワーの人は、それについていけばいいということです。

 ただ、宗教的な面で言いますと、宗教には「個人的な悟りだけを求めて十分と思うタイプの人」と、「大衆救済的な仕事をしなければいけないと思う人」の両方がいます。

 時々、禅寺に行って参禅し、心休まればそれでいいと思っている人にとっては、心の安らぎを得ることでも十分だとは思います。

 しかし、例えば日蓮のような人であれば、「辻説法に出たら、石を投げつけられるから出ないほうがいい。家の中でじっとしていたら、石をぶつけられない」と言われて、「ああ、そうですか。じゃあ家の中で安全にしています」と従っていたら、日蓮宗はできなかったでしょう。

 だから、自分が広めたいと思っているものにどれだけの値打ちを感じるかによって、人の熱意は変わります。逆に言えば、人は熱意を見てその重要さを感じ取るところがあります。

 

「動」と「静」を両立させる

 さらには、リーダーは「燃える闘魂」のようでなければいけませんが、燃える闘魂風の燃え上がる火の玉のようなリーダーも、実力が上がってくると、戦いながら戦える力を増すために、自分の精神に深く穿ち入らなければなりません。そのためには精神修養が必要になってきます。「動」が激しければ激しいほど、「静」の部分が必要になります。

 例えば、プロ野球のバッターも参禅しますし、政治家もそうした人がいます。ポーズだけの場合もありますけどね。人ひとりいないところで、座禅して心を鎮めるようなことが、大勢の前で説法したり、大観衆の前でホームランを打ったりすることに役に立つこともあるわけです。だいたい、正反対のもので癒されることが多いです。

 本当のリーダーになると、クワイエティズム(静寂主義)も必要になります。聖書を読めば、イエス様が何千人もの人についてこられたり、説法したりした後、山に退いたり、湖のほとりで静かに過ごしたりしているシーンが出てきます。やはり、何千人もの人の前で話をすると、今度は一人で神と対峙する時間が普通の人以上に必要になります。

 少し複雑に絡まっていて、ビジネスレベルの話と宗教領域の話は、一緒でないところがあります。ビジネスでもある程度、天意を受けて大きくしていこうとする人の場合は、宗教家のように心を静かにして、天意を受け取る、あるいは自らを振り返るような時間は要ると思います。

 結局、「よく縮むバネはよく伸びる」のと同じで、自分を虚しくして心を鎮めた人が、戦闘的に熱意を持ってやれるようになるのです。

 

「忙中閑あり」の境地へ

 ところが、ただ静かなだけの人は、退職の時に「誰にも迷惑をかけず、人畜無害に人生を生きました。大過なく人生を終えました」と、みんなにハガキを出せるタイプの方です。そういう人生設計でよければ、それでもよいと思います。

 「私は幸福の科学に40年勤めました。どなたにも迷惑をかけることもなく、何とか家族を養えることができ、無事卒業することができました。ありがとうございました」というハガキは出せるかもしれません。「で、何をしたわけ?」と聞かれると、「いや、それは特にありません。人事から辞令が出たところに行き、そこで心静かに座っておりました」と答えるわけです。

 経営レベルから見ると、何とも言えない部分はあります。何もしなければ心は穏やかだろうと思いますが、やはりレベルを上げるためには、人ができないような仕事をしながら心静かであることの方が立派でしょう。

 昔、巨人軍の監督にもなった川上哲治さんが、「全盛期、バッターの時には、ボールが止まって見えた」と言っていました。本当に能力が上がると、ボールが止まって見えるらしいです。忙しい仕事をしているのに「忙中閑あり」で、静かに見えるところがあります。

 電話と書類の山や洪水のような中で、「本当に忙しい、忙しい」と言って流されている人は、本当は仕事ができないことが多い。できる人の場合は、段取りがよくて計画性、あるいは、処理の仕方が速いので、意外に暇ができます。

 何度も言っていますが、会社員時代、私が行くところは仕事がスーッと減る傾向がありました。

 毎年その時期は、12時過ぎまで残業が続くのに、仕事がスーッとなくなっていくというのが、私がいるところの特徴でした。他の人の仕事も実は引き受けているのですが、それが早く終わっていくので、仕事が消えていき、暇な感じが出てきます。

 私が行くと「暇になる」とはよく言われました。なぜ暇になるかというと、すごく判断が速いのです。初見で「これはこうした方がいい。こうしてください」と判断するので、午前中に仕事が終わってしまうことがけっこうありました。手持ちの仕事がなくなるので、「他に何かしてほしいことはありますか?」と言って、他の人の仕事まで引き受けて、それも終わってしまいます。「余裕がいつもあるように見えた」とよく言われていました。

 

判断が遅いと心が乱れる

 仕事がたくさんあるから心が平静にならないかというと、そうでなく、単に判断が長引いて遅いだけということもあります。

 判断すれば、仕事は減っていきます。判断できないものが積み重なり、10も20も持っていると、心が千々に乱れて進みません。基本的に、手持ちの仕事は即座にできるだけ早く終わらせて、次の仕事にかかる体制をつくるということを信条にしてやってきました。

 私は本をたくさん出していて、本の基になるものを話しています。映像として上映もされますが、本として出す場合、編集部がテープ起こしをしたものがゲラとして上がってきたり、表紙の案や題の案がいろいろ上がってきたりして、それを見て直しを入れて本になります。

 書店に並ぶ前にもう一回、印刷ミスや誤植、内容に間違いがないか、目を通します。刷り上がったばかりのまだ温かい本がよく届きます。最初の五冊ぐらいはまだ温かいのです。間違いがある場合は早く見つけなければいけないので、上がってきたら即、読まなければいけません。書店に並ぶまでに3回ぐらい読んでいます。

 明治大学教授の齋藤孝さんは、いろいろな本を出しています。何百冊か出していると思いますが、あの人の本を読んでいたら、周りの人から、「今、機嫌が悪い。塞ぎこんでいる。憂鬱である」とすぐ分かるそうです。そして「校正ですか」と声をかけられるそうです。

 斎藤氏は本をつくるのが好きなのですが、校正が嫌いで、自分が話したものや書いたものの原稿校正が上がってくると、機嫌が悪くなるそうです。3冊分の原稿の校正が来ていると、もうやる気がなくなって嫌だと言っています。これは分かります。

 料理をつくるのが好きでも、後片付けが嫌いな人はたくさんいます。どんな料理でも、自分でつくるのは面白いけれど、終わった後、フライパンの油を落として、お皿を洗ったり片付けたりするのは面倒くさいですよね。

 私もたくさん話をしていて、話したものの大部分は本になることが多いですが、原稿を校正して、嫌な気持ちになるなら、だんだん本をつくるのが嫌になるでしょう。齋藤氏の本を読んで、「そういうことがあるのだな。たくさんつくると自分の原稿を見たら嫌になるのだろうな」と思いました。

 料理をつくりたければ、前の料理の片付けをしなければいけないというのは、基本的なルールです。それが済まないと次のものはつくれません。基本的には、プロセスを熟練して速めていくしかないと思います。

 私も忙しかった時、1日3冊ぐらい校正したことがあります。外部で本を出した時は校正する会社にも頼んだのですが、著者校正があまりに速いので向こうは驚いていました。

 校正のプロフェッショナルは、大体1週間ぐらいかけて校正しています。著者校正が1日で送り返されてくるので、あまりの速さに向こうが音を上げ、「速すぎませんか? 普通の著者は校正に1ヵ月かかり、原稿を持って離しません。『ここが気に食わない』とたくさん手を入れるので、でき上がらないのです」と言われました。

 私には、基本的な仕事のルールとして、「一つずつ片付けて、手すきにして、次の仕事に備える」という習慣があるために、こうしたことができるのです。

 

ほとんどの場合が「言い訳」

 一般的には、バーニング・デザイアーはリーダーの持つべき志です。心静かになりたいというのは、宗教が好きな普通の人の考え方です。宗教的なリーダーであっても、仕事を速く片付け、多くの仕事をこなそうと思えば、忙中閑ありの状態で、平静心を失わないような仕事はできるはずです。

 基本は、判断の速さや仕上げる速さ、物事の本質を見抜く速さだと思います。経験を積めば積むほど、レベルアップして早くなっていきます。

 判断だけでなく、次に来るかもしれない未来の仕事のために、”研究開発”の準備も必要です。そうした予習に当たる時間も取らなければいけなくなります。

 ほとんどの場合、言い訳にしか過ぎないと思ってください。燃えるような情熱が出てこない、心が静かにならないと言うけれど、たいていの場合は言い訳です。「もう一段器を大きくしましょう」と言わなければいけないことが多いと思います。

 在家時代、「忙しい、忙しい」と言っている人で、仕事ができる人は見たことがありませんでした。大体仕事ができないと見てよいです。大体、「段取りが悪い」「直感が悪い」「判断が遅い」、「間違いが多い」のです。

 仕事にミスが多い人は、繰り返し繰り返し同じ仕事を延々としなければいけないため、次の仕事ができず、仕事は遅くなります。そういうことの積み重ねだと知っておいてください。

参考

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