組織を率いる人の心の統御

   未来への羅針盤 ワールド・ティーチャー・メッセージ No.271

 身を守る術を知ることが知恵の始まりであるし、善悪を分ける始まりではあります。しかし、「個人の善悪や知恵の始まり」と、「集団としての善悪や知恵の始まり」には差があります。

 みんなを守る方法は、必ずしも個人を守る方法と一致するわけではありません。個人でいえば、「社長になりたい」と思う人はたくさんいるかもしれませんが、一万人の会社で社長が一万人も出たら大変なことで、「あとの仕事は、誰がなさるのですか」ということになります。みんな社長決裁で、「ハンコだけ押したい」と言っても、そういうわけにはいきません。

 やはり、選ばれた見識のある方に最終判断をしてもらうのがいいわけで、そこまでいっていない人は、「途中の仕事はこなせる」というところで満足しなければいけませんし、そこまで上がっていく過程はあるでしょう。

 

「泣いて馬謖を斬る」

 個人にとっては、当然自分を守り切れない部分は出てくると思います。仕事が大きくなれば、難しくなりますから、失敗も出てきます。単純な仕事だけに逃げ込めば、失敗はないかもしれませんが、成功もありません。

 その意味で、自分を守ることは基本的には善で、あっさり敗れ去るようなことは悪と考えられます。ただ、集団や組織、社会、国家になると、もっと大局的な判断が要るようになるので、個人の利害に反することもしなければいけないことは出てきます。

 例えば、蜀の軍師・諸葛孔明で言えば、「泣いて馬謖を斬る」というようなこともやらなくてはいけません。孔明にとって馬謖は兵法に通じ、意気投合して、兄弟か親子のような気持ちで、後継者と思っていたような人です。

 馬謖が今の東南アジアの方を攻めたときは、手柄をたくさん挙げました。ただ、蜀の5倍もある北部の魏は、名将や参謀が多く、けっこう強い相手でした。しかし、馬謖は若気の至りで孔明の命を聞かず、「街亭の戦い」で敗れました。蜀が魏に勝てなくなった決定的な戦いであり、その初戦で大損失を出してしまいました。

 魏には街亭という丘があり、その間に山への細い道があるので、孔明は「街道に陣を敷け」と何度も繰り返し、「陣を敷き終えたら、図面まで送ってこい」と言いました。副将の王平が使いを送り、孔明に図面を見せると、陣の敷き方を見た孔明は、「馬謖、敗れたり」とすぐ分かったそうです。馬謖の兵法が机上の空論だったということです。

 馬謖は、「丘の上から見下ろせるので、敵が来たら一気に駆け下りて、蹴散らせば勝てる」と考えました。孫子の兵法には「高きは低きものより有利」とあり、「高いところに陣地を張れ」という兵法もあります。

 孔明はなぜ丘の上に陣地を張るべきでないと思ったかというと、それは水攻めというか、水を絶たれるからです。

 「補給を絶つ」という戦い方があります。馬謖は、「丘に上がっても、丘から下りれば、水はいつでも供給できる」と思っていましたが、夜のうちにザッと敵軍に囲まれてしまいました。そこで決死隊を募り、夜に敵陣を破って水を汲んでこようとしたのですが、屍累々になり、結局敗れてしまいました。予想通りになってしまったので、孔明は悔やむわけです。南のほうは蛮族と言われていて、それほど知恵がなかったので、馬謖は何度でも勝てましたが、魏の国は強かった。この一戦に敗れたために、蜀は魏に勝てなくなりました。

 先の大戦における日本軍の戦いで言うと、ミッドウェーの海戦で空母を一気に4隻失ったことと同じでしょうか。この後、勝てなくなるわけです。「泣いて馬謖を斬る」という言葉があるように、「許したらいけない」と、愛弟子だった馬謖を処刑し、その後、孔明も自分自身を丞相から左将軍に降格しています。そうしたところを見せないと、規律が守れないためです。

 

判断基準は変わっていく

 大きな軍隊や組織が動くようになってきたら、信賞必罰、あるいは判断の基準を明確にして、あまり公私を交えないようにしていかないと、みんなが動かなくなり、ついてこなくなるという難しさがあります。

 松下幸之助のような人でも、「従業員が少ないうちは楽しかった」と、確か本に書いていましたが、私も同じ経験をしています。幸福の科学を始めたばかりの西荻時代は、仕事は滅茶苦茶でしたが、自分たちで全部仕事をつくっていけて楽しかったです。

 しかし、だんだんそういうわけにはいかなくなって、紀尾井町に移り、千人を超える職員が入ってくると、今度は組織として機能しなければ悪になるというか、みんなが食べていけなくなるような状況になってきました。厳しくもなるし、だんだんに「正しいか、間違っているか」という判断をしなくてはいけなくなり、いい顔ばかりできなくなってきました。

 大きさ相応に、判断の基準が変わってくることがあります。個人としては光明思想的に「これで救われた」と思っても、例えば軍隊を率いることになったら、いつも勝ち戦しかないと考えるのは甘いでしょう。百戦百勝しようと思えば、攻めるときは攻め、引くときは引き、迂回するときには迂回し、動かないときには動かない。そのように全部自由自在にできなければ、百戦百勝なんてありえません。

 個人としての自己実現、あるいは自己保存の法則は、最初期には正しいですが、多くの人たちの生活を預かったり、命を預かったりする立場になってくると、生き物としての個人の利害を超えて、例えば会社や役所、国家を守るように動き始めることになります。これをできるだけ両立させるように、努力しなければいけません。本当に大きくなってきた場合は、自分の自由にならなくなります。これを知っている人は少ないです。そういう立場に立たないかぎり、分かりません。

 

強みと弱みの組み合わせ

 頭のいい人はいろいろやってきたために専門知識が豊富で、やり方を変えるように言っても、「このやり方以外ではやりたくない」と言って聞かない人がいます。「専門としては自分のほうが上」という考えがあり、「それ以外のところが見えていない」と言っても、どうしても聞かない方はいます。

 経営においては基本的に、ある人の長所は認めつつ、弱点があるから、「弱点を埋め合わそう」と、弱点を補う人と組み合わせて使おうとします。長に参謀をつけて弱点を補いながら、判断を間違わないようにしていくのですが、もともと自分と違う性質や考え方を持っている人と組み合わせるので、すぐ仲が悪くなります。喧嘩や追い出し合いをして、結局中途半端なまま、船の舵が取れずにグルグル回転するような感じになってしまうことがあります。

 上はそういうことを心で思っているのですが、分からないのです。自分が失敗を犯すまでは、それが分からないことがあります。自分と違う異質な強みを持っている人、自分の弱点を強みとする人の弱みばかり見て、お互いに非難し合っていたら、組織としては成長しません。

 強みをなるべく生かせるようにして、弱みを他の人の強みでカバーしてもらうことで、全体としては前進します。その程度は、譲る心と自分自身を生かそうとする心を調和させなければいけないということです。ほとんどこれにかかっています。

 人事で組織の長を変えると、その人の長所と同じものを持っている人は評価して、その人の短所を強みとして持っている人は、その強みが見えません。必ずそうなりますので、そのあたりが難しいです。

 例えば、内閣は政治家二十人ぐらいでつくっていますが、その中に派閥の長がたくさんいます。普段はお互いの足を引っ張り合ったり、スキャンダルのネタを週刊誌に流したりして、同じ党内でも敵を倒すことに懸命な人たちです。彼らを内閣に入れているので、呉越同舟というところもあります。外に出すと悪いことをするので、中に入れて張り合わせて使い、共に敵に当たらせて一致させています。政治力としてはそうしたものもあります。

 

人に任せるかどうかの判断

 「そうしたことを知っていないと、発展はない」ということです。私も「自分のできること」と「できないこと」を考えて、できることはやるけれど、できないことは人に任せようと思っています。このあたりの加減が難しいです。

 自分はできるけれど、人に任せた方がいい段階なのか、まだもう少し仕上がりを待たないと任せてはいけないのか、微妙な判断のところがとても難しいです。いつも自分で全部やっていると、いつまで経っても他の人が成長せず、独り立ちしないで頼ってきますし、全部投げてしまうと、まったく思った方向に行かないことがあって、この加減がとても難しいです。最後、経営的な部分の悟りになるのだろうと思います。その辺りの見切りは非常に難しいです。

 「未熟だけど、やりたそうだからやらせようか」と思って全部投げると、先ほどの馬謖のように、ボロ負けして帰ってくることがあります。相手が老練な将軍が率いている場合なら、若いエースを送り込んだつもりでも、負けて帰ってくることだってあります。

 何回も戦をしている人なら、「水を絶たれたらもたない」ことぐらい、すぐ分かります。「こんなことも気がつかないのか」という感じでしょう。でも、未熟な人は「高いところに陣取ったほうが有利だ」という考えとどちらが優先するか分かりません。場数を踏んでいれば分かることです。

 こういうことがあるので、経営者としての悟りは、厳しいところも優しいところも両方なければいけません。人を育てたいと思っても、権限を委譲して失敗することも当然あります。それをどの程度に見るかは大事かと思います

 

欲を捨て、全体を生かす

 自己保存も一つの知恵ではあるのですが、組織として大きくなっていくためには、邪魔になるところがあります。要するに、無私になるところが必要です。「自分の欲を捨てて、全体が生きる方向を選ぶ」という考え方を身につけていかなければなりません。譲るべきところは譲らなければいけません。お互いに欠点を見つめ合ったら、収拾がつかなくなります。そういうところに気をつけてください。

参考

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