神武天皇や建国の歴史を知らない人へ

 建国の歴史を知る人は多くはないのが実情です。神武天皇とは一体どういった人物なのでしょうか。

神の教えを弘めるために「東征」

 神武天皇が生まれた紀元前711年(諸説ある)の日本は、出雲などに大きな勢力があり、分裂していました。天照大神から神の教えを弘める意向を受けた神武天皇は、兄弟とともに日本の全国統一を目指して、現在の宮崎県から海路で東に向かったのです。これが後に「神武東征」と呼ばれています。

 大分や広島などを平定・滞在した神武天皇らは、難波(現在の大阪)に上陸しました。しかし、上陸した先で、奈良の豪族である長髄彦(ながすねひこ)の待ち伏せを受けた神武天皇は、長兄・五瀬命(いつせのみこと)が敵に矢で射たれるなどで敗北を喫します。

 五瀬命は「我々は日の神の御子だから、日に向かって戦うのは良くない。回りこんで日を背にして戦おう」と意見したために、一行は難波を離れ、現在の和歌山に迂回。ところが、上陸した時に五瀬命は、矢の傷がもとで戦死してしまいます。

 その後、神武天皇の軍は熊野に至ると、大きな熊に化けた荒ぶる神と遭遇してしまいました。一行は全員気絶させられたものの、地元族長の高倉下(たかくらじ)が天照大神から授かった刀を持ってきたために、神武天皇はその刀により熊を退治することができました。

 さらに、夢の中で、「八咫烏(やたがらす)を遣わすので後をついていくように」というお告げを受けた神武天皇は、それに従って八咫烏の後を追い、宇陀(うだ、現在の奈良)にたどり着きます。到着した神武天皇は、長髄彦などの勢力を次々と打ち破り、3月7日に「即位建都の詔(橿原建都の令)」を発し、都づくりの方針を示しました。

 同詔には、「上(天上界)は天神が国をお授けくださった御徳に答え、下(地上世界)は皇孫の正義を育てられた心を広めよう」とあり、神の教えを全国に弘める意思が強調されています。

 翌年1月1日(太陽暦で紀元前660年2月11日)、神武天皇は橿原(かしはら)の地で即位。それ以降、現在の天皇陛下に至るまで連綿として天皇家は続いています。

 「建国記念の日」は、初代天皇の神武天皇が奈良の橿原宮で即位した日であり、明治時代では「紀元節」と呼ばれていた。戦後、GHQの日本統治時に、紀元節が廃止に追い込まれた。

 幸福の科学大川隆法総裁は、法話『日本建国の原点』の中で「(日本は)統一王朝として神武以後二千七百年近い歴史があり、こんな国は世界では他にない。昔栄えたギリシャの王朝も滅びているし、ローマ帝国も千年ぐらいの歴史しかない。日本は世界の誇りであり、この国自体が世界遺産」と指摘している。

参考

 しかし、学界の常識では、史料が不十分との理由で「神武天皇は実在しない」とされています。これが原因となり、神武天皇の歴史は教科書に記述されていません。そればかりか、一般的な教科書で初めて天皇として出てくる人物は第33代目の推古天皇なのです。

 戦後一貫して続く日本民族のルーツを否定する流れは自虐史観そのものです。現在の教育問題は、南京大虐殺従軍慰安婦などの虚構だけではありません。

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