心と肉体

 肉体は、たとえて言えば、本来は不安定であるのに、よく乗りこなしている自転車のようなもの。乗りこなしているうちは役に立つが、手入れを怠ったりして乗りこなせない場合、大変なことになる。

 肉体というものは、常に健康生活を心がけることによって、本来の目的を果たすことができる。自分の肉体は、自分自身が手入れしなければならない。

 たとえ光の菩薩であっても、肉体を軽視すると病気になるのが、この世の法則である。

 幸福の科学大川隆法総裁は、『常勝思考』で以下のように説かれました。 

「肉体というものは、よく乗りこなしている自転車のようでもあります。みなさんは、初めて自転車に乗ったとき、どのように感じたでしょうか。あれほど不安定な二輪車が何ゆえに走ることができるのか、不思議に思わなかったでしょうか。子供のときには、自転車に補助輪というものをつけて走ったことがあるはずです。ところが、「その補助輪をとって、前輪と後輪の二つだけの状態で、その上にまたがり、不安定ななかで自転車を進めるということは、きわめて難しいことである。どうやってバランスをとるのだろうか。バランスをとること自体、難しいのに、前に進まなければならない。進むだけではなく、左右を見なければならない。交差点にあっては、右に曲がるか左に曲がるかを考えなければならない。坂道にあっては、坂道を乗り越えるための努力をしなければならない。下りにあっては、ブレーキのかけ方が難しい」こうしたことを考えれば、「なんと不安定で危険な乗り物なのだろうか」と思っても不思議ではありません。しかし、毎日毎日、自転車に乗っていると、体の一部のようになってきて、造作なく運転できるようになります。肉体というものも、それに似たようなところがあるでしょう。もともとは非常に使いにくいものです。最初は、魂にとって束縛以外の何ものでもありません。しかし、最初は束縛に思われたものも、自分の支配下に置いて、自由に使えるようになっていく過程において、次第しだいに自分の一部となっていきます。そして、大事なことは、ちょうど自転車に乗る場合と同じで、自分が乗りこなしているうちは、自転車そのものは役に立つのですが、逆に自転車を乗りこなせない場合、これは大変なことになってくるということです。子供なのに大人用の自転車に乗ると、これは危険です。不安です。乗りこなせません。あるいは、ブレーキが壊れていたら、どうなるでしょうか。ハンドルが曲がっていたら、どうでしょうか。やはり危険でしょう。肉体を使うことについても、同じようなところがあるわけです。自転車のハンドルやブレーキ、あるいはタイヤの空気のように、気をつけて手入れをすれば、肉体は充分に乗りこなしていけるものです。ところが、「タイヤの空気が抜けていようが、まあ、大丈夫だ」というようなことで、たかをくくっていると、肝心なところで自転車が進まなくなります。「ブレーキぐらい利かなくても、車の量が少ないから大丈夫だ」と思って走ったところが、急に飛び出す車があれば困ったことになります。肉体の場合も同じなのです。肉体というものは、常に健康生活を心がけることによって、真に本来の目的を果たすことができます。不養生は、決して他人のせいではないということです。自分の肉体は、やはり、自分自身が手入れをしなければなりません。各人の具体的課題として、まず肉体の健康管理ということがあるのです。(中略)その結果、心のほうに悪影響が出たとしても、それは、やはりあなた自身の問題だということなのです。これは、各人が出てきた霊層とはあまり関係がありません。光の菩薩であっても、肉体を軽視すると病気になります。それはひとつの法則だからです。タイヤに釘を刺せばパンクするのが地上の法則であるように、肉体も適度な休息と栄養を与えて上手に使っていかなければ、だめになります。この部分は、学校の先生も教えてくれません。心の問題と同じように、肉体の管理も各人に任されているのです。たまに、身内の人で管理してくださる方がいる場合もありますが、少なくとも各人の問題として残っています。この部分は、原則として他人の指導はないと思って、みずから律していく必要があります」

 宗教に興味があるような霊的な方は、わりあい肉体を粗末にしがちだが、この世で修行する器としての肉体は大事なものです。努力して健康を維持することは、この世の幸福のために大切です。

 大川隆法総裁は、自らの健康法として、公園を歩くことから始めて、室内でルームランナーやダンベルを使って運動する、さらにテニス、水泳や水中ウォーキング、真向法など、さまざまな運動を実践しておられることを、実体験として説得的に語っておられます。

 総裁は、『復活の法』で以下のように説かれました。

「健康法について、年を取ってからストレートに教えてくれる人は、あまりいませんし、体力は、一人ひとり、まったくばらばらです。そのため、「何が自分に合っているか」ということを、他の人のものを参考にしながら研究し、自分に合った健康法を編み出していくことが大事です。年を取っても長く健康に働いている人を見て、食べ物や運動、生活のパターンなど、その人のよいところをよく研究し、「この人のようになりたい」と思う人のまねをしていくとよいと思います。基本的な教科書のようなものがあるわけではないので、「自分の環境のなかで、自分に許される範囲で、できることは何か」ということを考えてみてください。みなさんも、自分なりに、いろいろなものを組み入れて、毎日、何かの運動を少しずつすることが大切です。運動をすることができなければ、「とにかく歩く」ということでもよいでしょう。いろいろな所を歩いて何千歩か稼ぐのです。 たがって、中年期以降は万歩計が必需品です。私も万歩計を身につけて一日一万歩を目安に歩いています。毎日、万歩計をつけて歩き、「きょうは何歩ぐらい歩いたか」ということを見ているとよいのです。その歩数が少ないと、病気になる可能性は高くなります。そういうかたちで運動を続けると、効果はてきめんに表れ、仕事のときの体力も増えますし、疲労からの回復も早くなります。もちろん、疲れたときには保養も大事なのですが、その前に、あまり疲れないように基礎体力を上げておくことは、とても大事です。基礎体力を上げておくと、回復が早くなります。体力が弱っていると回復に一週間ぐらいかかる場合でも、体が強くなると、一日ぐらいで回復するようになります。これは大事なことです。特に、頭脳労働をしている人は、意図して体を鍛えないと、やはり回復は遅いのです。肉体労働者は、毎日、体を動かしているので、回復が早いのですが、頭脳労働者は、運動をしないと体は弱ります。「長く知的活動をしたい」と思うのであれば、体をこまめに鍛えなくてはなりません。自分に合った鍛え方でよいので、こまめに鍛えれば、長く知的活動ができるのです」

 身体というものは、流れる川のように日々中身が変わっていくものであるから、自分の心、つまり、自己イメージで変えていくことができる。

 病気はほとんど心に問題があって、自分の心が発信するものが、自分の幽体に異変を起こして、肉体に病気を引き起こしてしまう。

「同じ川の水を飲んで、蛇は毒をつくり、牛はミルクをつくる」

 食物をプラスに変えるかマイナスに変えるかは、ひとつの工場でもある自分の身体なのです。

 大川隆法総裁は、『理想国家日本の条件』で以下のように説かれました。

「私たちは、三千グラムぐらいの身体で生まれてきますが、それから何十年か経つと、生まれたときに両親からもらったものは何ひとつなくなっている、ということをまず知ってください。細胞の、一つひとつが全部入れ替わっています。骨も入れ替わっています。頭蓋骨も入れ替わっています。内臓も全部別のものになっています。生まれたときのままではないというだけでなく、現時点においても変わりつつあります。一カ月前と今とでは、みなさんの身体は違うものになっています。大部分が入れ替わっています。一年前と比べると、ほとんどの部分が、もう全然別のものになっています。毎日毎日、新しい細胞ができ、古い細胞が消えています。それが現実なのです。そうすると、「生まれつき身体が弱い」とか「生まれつきの遺伝である」とか、いろいろな言い方がありますが、生まれたときの悪い状態のままであるということは、その状態の身体を自分がいつまでもつくりつづけている、ということ以外の何ものでもないのです。身体というものは固定化したものがあるのではないのです。それは流れる川のようなものなのです。では、その変わっていく身体を、いかにして維持しているのでしょうか。実は、「自分とはこういうものである」という自分の心が、その身体をつくっているのです。自己イメージが身体をつくっているのです。たとえていえば、筋肉を強くしようとすれば、腕立て伏せをするだけで腕の筋肉がつくでしょうが、腕立て伏せをしようと思わなければ筋肉がつかないでしょう。脚を強くしようと思えば、歩けば強くなるでしょうが、歩くのをやめると弱くなるでしょう。それは外面的な筋肉ですが、身体のなかの内臓やその他の諸器官も同じです。いつもその器官を強くしようと思って健康生活を心がけていくと、強くなってくるのです。ところが、心のなかに悪い想念や否定的な心を持って、「自分は病気だ。不幸だ。やがて死ぬ。多くの人の同情を受けて生きていくしかない」というようなことをずっと思っていると、これが現実のものになってきます。身体には、それにオーバーラップして、幽体という、非常に物質界に近い霊体がまずあり、その奥にさまざまな霊体が多重構造で存在しているのです。そして、心から発信されてきたものを、この幽体が受け止めています。ですから、幽体のところに異変が起きると、その異変が肉体にも起きてきます。これが病気の根源なのです。病気はほとんど心のところから出てきているのです。食べ物によって身体が悪くなったという見方もありましょう。もちろん、バランスを崩せばそういうこともあるでしょう。ただ、同じ液体、同じ川の水を飲んで、蛇は毒をつくり、牛はミルクをつくります。まことに不思議です。ですから、飲んだ物、食べた物だけの問題ではないのです。それをどうつくっていくか、プラスに変えるか、マイナスに変えるかは、ひとつの工場でもある自分の身体が変えていくものなのです」
 

 医者は、標準から離れたり、分からないことがあると、何でも病気や難病ということにします。けれども、人の体というのは流れる川のようなもので、半年前と同じものは、ほとんどないのです。

 不思議なことに、人の体も、脳の細胞まで入れ替わっています。脳の細胞が入れ替わっているというと、記憶がなくならないのか少し心配ですが、新しい細胞が出てくるのです。誰が移し替えているのか知りませんが、自分で過去の記憶を移し替えている覚えはありません。

 頭蓋骨などの骨も、赤ちゃんとして生まれ、固まった後でも、やはり大きくなっています。発達して、脳に合わせて大きくなっています。

 このように、人体にもいろいろなものができ上がってくるのです。骨もできれば、血管もできる。細胞もできる。筋肉もできれば脂肪もできる。いろいろなものが、自動工場のようにしてでき上がってきます。自分でつくっているわけではないけれども、必要に応じてできていくのです。

 ですから、そのような病気が必要だと思っていれば、その病気が出てくることもあるかもしれません。しかし、「必要ではない」と心から思えば、それはなくなるはずです。

 家庭の中でいろいろな悩みがあると、それが病気となって表れてくることがあるので、もし悩んでいるようなことがあったら、解決することも大事です。

 ただ、神はそういう病気をつくっていません。医者は病気を何万も つくっています。その中には、いろいろな心身の不調和や標準から外れたものなどが、いろいろとあるのかもしれません。なぜそうなっているのか、医者には分からないことがあるかもしれませんが、一般的に、人間はそのような病気をつくるために生まれてきたわけではありません。

 人の体は、半年もすれば入れ替わってくるものだと考えて、「変われ、変われ、変わっていけ。全部入れ替わっていきなさい」というように思っていれば、どの部分だってつくり変えることができるのだということです。

 けれども、医学の方では、否定的なことが多くて、「これは駄目です」「あれも駄目です」「もう治りません」「もう一生治りません」「もうこれで死ぬしかない」などと言っています。「あと何ヵ月の命です」「一生、この薬を飲み続けなければいけません」などと、いろいろと言っていますが、医療基準が変わった途端に、話が変わってしまうこともあるわけです。

 やや、医学に対する信仰のようなものが立ちすぎているかと思います。この世は唯物論の中で成り立っているわけではありません。心の力というのは大きいです。もともとそんな病気はないのだと思ったほうがよい。成長するにつれて健全になってくると思った方がよいでしょう。

「肉体の病変は、幽体が病んで黒ずみ、異変が出て、それが肉体に現れてくるのです。病気を治療するには、外から肉体を治療するやり方もあるが、内側から治すことも可能です。 そのやり方は、「自分の中には神仏の子としての輝いている部分があるので、この光の部分が霊体の外の病んでいる所を修復できる。」と強く念うと治るのです。つまり幽体の修復が終わると肉体が治ります。 この世的な事で体が具合が悪くなることも、勿論ある。物質的な原因による病気や事故などがあるが、この世のルールとして多少なりとも肉体に変更を加えて治すこともある。 例えば、肥満ならカロリー摂取を減らせばいいし、タバコの吸い過ぎで肺がんになったら、タバコをやめれば治る可能性は高い。しかし、肉体が車みたいなものであって、変わらないという考えは捨てないと、宗教パワーで病気を治しづらい。人間の本体は霊体で、霊体の影響で肉体が変化してくるという考え方が真実である。本来は、地上を去った世界で、自由自在の姿をとっており、創造性に満ちた生き方をしている。 心のあり方を通して、体のあり方も変わってくる。天台大師の一念三千のようなものです。医者の言っていることも大まかには間違っているわけではないが、「絶対治らない」とか「一生治らない」というのは間違っていることが多い。人間は、考え方によって人生を変えることが出来る。良いほうにも悪いほうにも創造できる。悪い方の「創造」が病気の元になっている。精神的ショックや自己処罰の概念、自分をあまりにもいじめる気持が、潜在意識に沈殿して病気になることがある。それに気づいたなら、念いの修正をかけていくことです。また、特定の人を恨みすぎていると病気になるし、相手から恨まれたり嫌われることで病気になることもある。生霊(生きている人間の念の力)がやってきて憑依(霊が取り付くこと)している。生霊は現代にもいることはいる。 生霊の正体は、守護霊に、本人自身の強い念が合体して取りついてくるもの。相手に執着したり、攻撃する念い、嫌う念いや、相手を首にしたいとか「飛ばしてしまえ」とか「死んでしまえ」などといった念いがへばりついてくる」(『奇跡のヒーリングパワー』講義)

 病気の原因は、肉体的だけではなく、人間関係や思いで起きているものもある。そういうものが内部にあったら取り除くことです。

 仏教で「色心不二」と言うように、肉体(色)と心は互いに影響しあっている。競争社会であり情報過多で忙しい現代では、頭や気持ちや心の疲れが体の疲れに結びついていることが多い。

 参考

 西洋医学は、正確に言えば、唯物論のほうに傾いていると言わざるを得ないところはあると思います。哲学的には、デカルトやカントの流れがさらに純粋化してきて、肉体的なことと精神的なことを切り離してきた流れが科学として残って、そういうふうになってきているところはあると思います。

 ただ、「事実がどうであるか」ということは、やはり大事なことです。現実には、「魂と肉体を融合したもの」が人間です。これは、各種の霊言集を出して、ずっと実証をやっております。

 人間は、やはり、魂と肉体が合体して存在するものです。たとえて言えば、いくら卵が、自分に中身があることを信じていなくて、「私は殻だけであって、中身はないのです。外側の殻だけが卵です」と言っていたとしても、やはり、中に入っているものがあってこそ卵なのです。こういうことを言っているだけのことです。殻を否定しているわけでもありませんし、中身だけで卵が存在できるわけでもありません。

 器がなくて、魂だけでは この世で修行ができないし、肉体だけで中身の霊がなかったら、やはり修行になりません。そういう存在であるということが事実なので、唯物論は片方だけ見ているということです。

 もちろん、唯物論的に攻めていって、成果を上げている医療もあることはあるので、それを否定するつもりない。この世的に研究して、薬なり、治療法なり、有効で成果を上げているものについては、それなりの神のご加護はあります。

 ただ、それによって、霊的なるものを完全に否定する方向に物事が行ってはいけないのです。医学系の人は唯物論的になりがちではあるのですが、医学よりも科学として純粋な物理学系統、最先端の物理学になってくると、信仰の世界と変わらなくなってきており、神様を信じている人が多い。この辺の未知の領域はまだ残っている。

 自分の肉体を簡単に葬られないようにするためには、強い光の思想、繁栄の思想、あるいは邪悪なるものに負けない気持ち、「真実は死なない」という強い気持ちが必要です。こういうものを持っていないと、自分を守れないこともあると思います。

 それを表立って言うか言わないかは別にしても、病気を治すほうの側としては、両方を上手に使い分ける必要はあるでしょう。両方を知って、使えるものは使って、やるべきだと思います。

 さらに、もう一つは、医学で使われる心理学が、まだあまりに幼稚なレベルです。これについては、人間学をもっともっと深く知っておかないといけないと思います。

 まだ、フロイトやユングなどの流れのなかで、医学的にも治療は行われているのだと思いますが、間違ったものも相当あることは事実です。また、病気と判定されているなかにも、いわゆる「霊障」に当たるものがかなりあることも現実です。エクソシスト(悪魔祓い師)のところへ行くか、病院へ行くかの違いですが。やはり、真実をきっちり知っておいて、光のパワーによって治していくことも、同時にやらなければいけないと思う。

 それから、病気の大部分は、本当に心の持ちようで変えていくことができます。

 「心で何を思うか」によって、人間は自分の未来を設計し始めるのです。肉体をつくるのは、もとは、やはり心です。「自分の未来をどう設計していこうとするか」ということが大きいわけです。治療をしながら、そのことを少しずつ伝えていくことが大事です。

人間の肉体は魂にとっての「器」である

人間が自分だと思っている体は乗り物にすぎない

人体の奇跡

悩みの80パーセントは疲れが原因

ストレスが内臓の霊体に損傷を与え、それで肉体に疾患が現われてくる

 現代の西洋医学は、なぜ、がんや生活習慣病などに対応し切れないのか。医療改革を実現する上で、避けて通れない課題だが、「問診の診療報酬が一律に決められている」ことに、考え方の限界が垣間見える。

 生活習慣を改善するには、対話の力が大きく影響する。検査数値の奥にある、その人の性格や悩み、人生観などを理解しようとする医者であれば、治療効果は高まるはずです。しかし、今の医療制度は、「対話」についての付加価値の差を認めていないため、医者の意識は投薬などに向いてしまう。

 西洋医学の限界は、人間を物質と捉えて、機械のパーツを修理するような発想から抜け出せないことにある。

 その限界を乗り越えるには、「人間の本質は心であり魂である」という霊的人生観を受け入れるかどうかにかかっている。人間は肉体に魂が宿って生活する色心不二の存在であり、葛藤や悩み、怒りやストレスといったマイナスの思いを長く持ち続けると、それが霊体に暗い影をつくり、やがて肉体に病気となって現れてくる。つまり、表面的な生活習慣の乱れは、そのマイナス感情の現れなのです。

 信仰を持つと健康が回復する例は数多く存在する。なぜなら、正しい宗教は神仏の心に適った生き方を教えているからです。手術や薬という外からのアプローチだけでなく、心を正すという内面からのアプローチを増やせば、病気はもっと治せるでしょう。

 医学の限界を乗り越え、本当の医療改革を実現するには、医療者が霊的真実に目を開くことが求められている。

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