原子と分子

参考・引用1

参考・引用2

原子論の始まり

 物質が何からできているかを考察したのは、紀元前のギリシア時代に現れた「自然哲学者」と呼ばれる人達であった。そして、彼らは様々な物質もいくつかの共通の構成要素が組み合わさってできていると考えた。その中で、デモクリトスは物質が無数の小さな粒子からできていると考え、それを「原子」と名づけた。そして、原子と原子の間には真空になっていると考えたが、アリストテレスの「空間は真空を嫌う性質を持つ」という考えに押され、ほとんど忘れられてしまいました。

 

原子論から原子の発見

 ルネッサンスが始まると、古代ギリシアの原子論が甦った。ボイルは他の物質からは合成できない物質があり、これらを「元素」と名づけた。そして、それぞれの元素は違う種類の原子からできていると考えた。

 ニュートンは、太陽の周囲をまわる惑星の運動が、太陽と惑星の間に働く重力によって行われる事を説明し、これを原子にも適応し、原子同士の間にも何かの力が互いに結びついていると考えました。

 18世紀後半から19世紀前半にかけて、原子論に係わる実験事実が次々と現れた。「ラボアジエの質量保存の法則」「プルーストの定比例の法則」「ドルトンの倍数比例の法則」などである。

 ドルトンは、すべての物質が原子からなり、違った元素はそれぞれ決まった質量をもつ原子からできているとした。そして、2種類以上の元素が化合物を作る時、各々の原子は結合して分子を作ると考えた。また、元素の質量比などから、各元素を作る原子の質量比を求める事に成功しました。

 メンデレーエフは、1869年に、元素を原子量の小さい方から大きい方へと順に並べて、周期表を作った。この周期表は、規則性が現れる事から、それぞれの元素は共通の構成要素を持つと考えた。

 そして、原子が存在する証拠が積み重なっていくと、気体が持つ熱や圧力を気体を構成する原子や分子かの運動から説明する「気体の分子運動論」から、原子の大きさや重さを推定しようとする物理学者が現れた。20世紀の前半までは原子の存在に反対する科学者も数多くいたが、まったく違う分野である花粉のブラウン運動が分子の実在を示す決定的な証拠となった。

 

原子の内部構造

 原子は内部構造を持たない究極の微粒子だと考えられていたが、「メンデレーエフの周期表」を説明するには、原子は何らかの構造を持っており、その構造の相違や類似性が元素自体の性質や類似性になっていると考えられるべきである。その構造を解く鍵は、トムソンの陰極線の研究による電子の発見であった。電子がマイナス電荷を持つことと、原子が全体として中性であることから、原子から電子がなくなると原子はプラスの電荷を持つようになる。そのため、原子の中にはプラスの電荷を持つ部分があり、プラス電荷量と同数の電子を取り込むことで、原子は全体として中性になっていると予想された。そこで、原子の内部構造モデルが提案された。トムソンは、原子の全体にわたってプラスの電荷をもつ部分があり広がり、その中で電子がスイカの種のように散らばっているというスイカ型モデルを提案した。一方、長岡半太郎は、プラスの電荷を持つ部分は原子の中心にあり、電子は太陽の周囲を惑星が回るように、あるいは土星のリングのように、プラスの電荷を持つ部分の周囲をまわっているという土星型モデルを提案した。実際の原子がどのようになっているかは、1910年にラザフォードの実験によって明らかにされた。それは、原子にα粒子をぶつける事で、原子の構造を明らかにするという方法であった。当時、ある種の原子は放射線を出して他の原子に変わること、そして、放射線にはアルファ線、ベータ線、ガンマ線の3種類があることが知られていた。α粒子はプラス電荷を持ち、質量は水素原子の4倍であることが分かっていた。この実験により、原子は中心のごく小さな領域にプラスの電荷が集中していることが明らかとなった。

 

原子核の構造

 原子の構造が判明すると、次は原子核の構造に興味が集まった。さまざまな原子にα粒子をぶつける実験から、どんな種類の原子からも水素の原子核が飛び出す事が分かった。これは、水素の原子核はすべての原子の原子核の構成要素となっている事を示しており、水素の原子核は陽子と呼ばれた。しかし、酸素の原子核は陽子8個分の電荷を持つことができるが、酸素の原子量は 16 で、水素の16倍である。そのため、ラザフォードは、原子核は陽子だけで構成されているのではなく、電荷を持たない「中性」である未知の粒子が存在するであろうと考えた。また、原子核のもう一つの謎は、プラスの電荷を持つ陽子が集まっているのに、なぜ、反発しあってばらばらにならないのかという疑問であった。しかし、「原子核に中性の粒子がある」という考えは、当時あまり支持されず、「原子核は陽子と電子からできている」という説の方が有力だった。後者は、酸素の原子核が16個の陽子と8個の電子からできているとするものである。この説では、なぜ原子核が反発しないかは説明できないが、重さも電荷もうまく説明することができる。さらに、「ベータ崩壊現象」も後者を後押しした。ベータ崩壊現象とは、ある種の原子の原子核が、ベータ線を放出して他の原子の原子核に変わる現象である。また、ベータ線が電子であることが当時すでに知られていた。したがって、原子核には電子があり、その電子が飛び出してベータ崩壊が起こると考えられた。だが、事実はそうではなかった。1932年、様々な原子にα粒子をぶつける実験を続けていた チャドウィック が、陽子とほぼ同じ質量で電荷を持たない粒子を発見し、中性子と名づけた。陽子と中性子は電荷が違うだけで質量がほぼ同じであることと、「スピン」という性質が同じであるため、まとめて核子と呼ばれた。この発見により、原子核が陽子と中性子でできていることが分かった。ベータ崩壊についてはフェルミがその答えを示した。それは、原子核の内部で中性子が陽子に変わったとき、同時に電子が生まれて、それが原子核の外に飛び出すという考えであった。

原子核 さらに詳しく

 原子核の周りを回る電子の軌道は、連続的な値をとるのではなく、とびとびの不連続な軌道をとる。また、自然界には全体として最も低いエネルギー状態をとろうとする傾向がある。原子核に一つずつ電子を与えていったとすると、最初の電子は最低のエネルギー状態に入る。後続の電子は、もはやその最低のエネルギー状態には入れず、とりうるエネルギー準位を下から上に順に埋めていく。こうして、電子は外側に外側にと積み上げられていく。異なった状態に位置する電子は、それぞれ異なった仕方で原子に特性を与える。電子の数が異なるにつれて、電子の分布パターンが変わり、原子のエネルギー分布が変わって、原子が結合しやすものであるかどうかというような重要な性質まで変化してしまう。その結果、各種の原子が、物理的にも化学的にもそれぞれ固有の特性を示しているのである。同じ素粒子でできていながら、自然界にある元素の化学的な性質が色々と違うのは、原子の中にある電子の数がそれぞれ異なっているからである。

 

原子と分子  

 物質をそれ自体の性質を保ちながら非常に細かく分割していくと、その究極的な粒子として分子に分割される。分子とは、物質の化学的性質を失わない範囲で物質を分解しうる、最小単位の粒子である。分子はさらに原子に分かれる。物質を化学的に分解していって、最後に得られる要素を元素といい、各元素に属する物質の構成単位の粒子を原子という。元素の数は周期律表におさまる、水素からウランまでの92種類であるが、最近は天然にないものが人工的に造られて、109種以上が知られている。宇宙を造るものはこれらの元素である。元素の分子は同じ種類の原子からなり、元素でないものの分子は違った種類の原子からなっている。

 酸素の分子は2個の酸素原子からできており、炭酸ガスは酸素と炭素の原子からできている。また、タンパク質や核酸などの高分子物質は、水素、炭素、酸素、窒素など非常に多くの原子が結合してできたものである。原子はそれぞれ特有の性質をもっていて、あるものは他のものと化合しやすく、あるものはまったく化合しない。それぞれの性質の差が物質の多様性を生み出すもとになっている。莫大な数の化学物質は、すべて数種の異なる原子の組合せでできている。  

 元素の性質の周期的な規則的パターンは、原子の内部構造によって理解される。原子は、陽子、中性子、電子の三つの素粒子からなる内部構造を持つ。原子の中心には正の電荷をもつ原子核という重い粒子があり、その周りを負の電荷をもつ電子という軽い粒子が回っている。原子は、原子核と電子が電気的な力で結び付けられて成り立っている。その原子核は、陽子という正の電荷をもった粒子と中性子とからなる。中性子は電荷をもたない粒子で、その質量は陽子とほとんど同じである。陽子、中性子、電子などを総称して素粒子という。われわれ自身およびその周囲のものは、すべて、陽子、中性子、電子などの素粒子で造られていて、これらが自然現象を生じさせる基本物質である。

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