アインシュタイン と ボーア

 宇宙開闢のビッグバン仮説、ブラックホール理論など、現代物理学を支える理論のほとんどは、相対性理論から導き出されました。しかし、今は相対性理論が考えられていたほど完璧ではない事実が、最先端の物理学で実証されつつあります。

 例えば、極小の素粒子の世界では、光の速度を越える現象が度々観測されており、相対性原理は破れています。つまり、相対性原理だけでは、この世界の完全な説明は不可能ですし、間違った前提に基づいて生まれたその後の理論も全て誤りとなる可能性もあるのです。2011年9月、国際共同実験OPERA「オペラ」の研究グループは、ニュートリノの速度が光速より速いことを実験で見出したと発表しました。

 アインシュタインは、有名なマイケルソンとモーレーの実験の結果、光の速度を越える存在はないと断定したのですが、この実験結果から違った結論を、その後多くの学者が引き出しているのですが、大々的に取り上げられることはありません。アインシュタインの相対性理論を批判したり否定するのが憚られるほどに、その呪縛は相当にきついようです。

 このマイケルソンとモーレーの実験は、光が波なのか粒子なのかを決定するためのものでした。つまり、光が波であるとするなら、例えば電波や音波に対する空気、海の波に対する海水のような、波を伝える媒質の存在が必要です。光は真空の宇宙空間を突き抜けて来ますから、空気は媒質ではないわけです。

 媒質と考えられていたのは、アリストテレスが提唱した、この宇宙を覆っているとする目に見えない「エーテル」でした。このエーテルの存在を検出できれば、光は波であると決定できるわけです。しかし、実験ではエーテルは検出できませんでした。

 アインシュタインはこの実験結果を踏まえて、光速度不変の原理を立てて、なぜ光が波の性質を示すのかの考察を放棄し、エーテルは存在せず、エネルギーと質量は等価で、空間は実は歪んでいるなどとした相対性理論で、宇宙の全ての物理現象を説明できるとしました。

 マイケルソンとモーレーの実験でエーテルが検出できなかったのは、エーテル概念が間違っていたからだとしています。地球の大気中にエーテルが満ちているのではなく、この宇宙の空間そのものがエーテルなのだとするわけです。

 例えば、テレビやラジオ、携帯電話の電波を送受信する技術は知っていても、発信された電波が一個ずつの粒子なのに、多くの受信装置で同時にキャッチできるのは、考えれば不思議なことです。物理学では光や電波は波でもあり粒子でもあるとしていますが、これはそういう性質をそのまま知識として受け入れているだけで、それは何故なのかという根本的な説明ではありません。

 この現象に説明としては、もし、宇宙空間が何もない真空だったら、波でもあり粒子でもある光が一定速度で直進するとすればよいわけですが、電波も直進するのか疑問ですし、波でもあり粒子でもあるという点が誤魔化されているようで、違和感を覚えます。この点、アインシュタインと同じ頃に活躍した物理学者のニールス・ボーアが創始した量子力学にヒントが得られそうです。ボーアは、原子より小さい素粒子の世界では、相対性原理が通用せず、私たちの常識を覆す現象が多いことに気付きました。この世界は物質ではなく、人間の意識こそが存在を規定しているのと言うのです。つまり、観測している素粒子がいつ、どの位置に存在しているかを決めるのは不可能なのですが、これは素粒子が粒子の性質を示すかと思えば、波の性質を見せたりして、実体が捉えにくいのですが、その状態を決定するのは、観測する人間の意識なのです。観測者が素粒子の状態を調べようとすると、素粒子がその意識を察知して、瞬時に状態を変化させるのです。つまり、素粒子に意思があるとしか考えられない振る舞いをするのです。また、スクリーンの手前に小さな穴を開けた板を置き、素粒子にその穴を通過させると、一つの素粒子が同時に二つの穴を通過したりの奇妙な現象が起こります。

 ニールス・ボーアは、量子力学を打ち立て、これら素粒子の奇妙な現象をシュレディンガーなどが不確定性理論や波動方程式にまとめて、量子の世界の出来事はこれが原因で結果がこうなるという因果律に囚われず、確率的にしかわからないとしました。しかし、この理論は相対性原理と相容れず、アインシュタインはボーアたちとの論争を死ぬまで続けました。

 量子と総称される素粒子とは、原子核を構成する陽子、中性子、中間子、そして原子核の回りを回る電子を含め、陽子などを構成する更に小さいクォークなどです。極小の世界とは言え、例えば、原子核を東京駅に置いたラグビー・ボールだとしますと、その回りを回る電子はピンポン球の大きさで、小田原辺りを回っているほどに、隙間だらけのミニ宇宙なのです。この隙間の空間に何があるかと言いますと、空気もいろいろな分子からなっていますから、当然空気ではありません。空気も入らないほど小さいわけです。

 いわば真空なのですが、真空とは何もない空間ではなく、いろいろなエネルギーが詰まった空間だということがわかってきています。「無から有は生じない」と言われますが、実は生じているらしいのです。しかし、まだ現代の科学ではそれが検出できません。

 この宇宙空間は見えない物質で満たされているようです。天文物理学の分野では、観測される宇宙全体の星の全重量と、理論で得られる数字が合わない事実を、観測できないダークマター、つまり見えない物質が宇宙にたくさん存在しているからだとしています。

 私たちの体を始め、宇宙の万物を構成する究極に近い単位の原子でさえ、隙間だらけのスカスカの存在だということになります。そして、この宇宙空間は、空っぽの空間ではなくて、何か未知のエネルギーに満ちているようです。

 しかも、極小の素粒この宇宙空間は見えない物質で満たされているようです。天文物理学の分野では、観測される宇宙全体の星の全重量と、理論で得られる数字が合わない事実を、観測できないダークマター、つまり見えない物質が宇宙にたくさん存在しているからだとしています。
私たちの体を始め、宇宙の万物を構成する究極に近い単位の原子でさえ、隙間だらけのスカスカの存在だということになります。そして、この宇宙空間は、空っぽの空間ではなくて、何か未知のエネルギーに満ちているようです。
しかも、極小の素粒子は意識を持っているようですから不気味です。この素粒子が私たちの体を構成していることを思うと、この不思議な量子力学の世界も、私たちの存在のあり方と無関係とは言えないはずです。光を構成する光子も含めて、素粒子が実体のない波になったり、実体を持つ粒子になるということは、私たちの存在も実体があるように見えて、実は幽霊みたいなものだということにならないでしょうか。
子は意識を持っているようですから不気味です。この素粒子が私たちの体を構成していることを思うと、この不思議な量子力学の世界も、私たちの存在のあり方と無関係とは言えないはずです。光を構成する光子も含めて、素粒子が実体のない波になったり、実体を持つ粒子になるということは、私たちの存在も実体があるように見えて、実は幽霊みたいなものだということにならないでしょうか。

 

究極の微粒子は必ずしも物質ではない

 ここ100年の学問の進歩で、最も大きく常識が変わったのは、物質に関する認識かもしれない。

 20世紀の初めまでは、物質の最小単位は原子と考えられていた。原子は原子核と電子とで構成され、しかも、水素原子の場合、原子核の大きさは原子の10万分の1に過ぎなかった。これは、原子核を半径1mのボールとすると、原子の大きさは半径100キロの円となる計算であり、原子の中身はスカスカなのである。

 この原子核も陽子と中性子とで構成され、その陽子と中性子の中にもさらに小さな粒子がある。これがいわゆる素粒子の世界である。この段階になると、「物質なのに物質でない」という不思議な性質を持つようになる。例えば、電子と電子を特殊な設備を使って衝突させると大きなエネルギーが生じるが、そのエネルギーから新たな素粒子が生成され、しばらくすると崩壊するという現象が起きる。つまり、エネルギーが物質になったり、物質がまたエネルギーに戻ったりするのである。さらに、「何もない」と思われていた真空も、無数の粒子と反粒子が、生まれたり消えたりを絶えず繰り返していることも分かってきた(真空のゆらぎ)。また、ニュートリノという素粒子のように、何でも通り抜けてしまうため(地球すら通り抜ける)、「幽霊のような粒子」と呼ばれるものもある。

 原子以下のミクロの世界では、事実上中身は空っぽで、その中のわずかな物質である素粒子も現れては消えたりする不思議な性質を持っている。まさに、仏教でいう「色即是空・空即是色」の世界である。