パレスチナ問題

 現在の中東を巡る問題としては『パレスチナ問題』が最も重要です。というのも、これが現在の「西洋と中東の宗教的葛藤」の元凶となっているからです。

 

西洋でのユダヤ人迫害

 20世紀にはいる以前から、西洋でのユダヤ人迫害が行われていました。ヨーロッパ人から見ると、ユダヤ人というのは、シェークスピアのベニスの商人に明確に現れているように、商売・金貸しなどで富を蓄え、それが膨大となり、西洋の商人を圧迫しているという経済的理由がありました。実際、ユダヤ人は商売に長けていることは事実で、今日の世界でも経済界を支配しているのはユダヤ人といわれ、とりわけ、アメリカは政治・経済・文化などあらゆる面でユダヤ人が支配し、アメリカは隠れたイスラエルとなっていて、そのため、本家のイスラエルの全面的擁護となっていると言われています。実際、アメリカでのユダヤ人の人口はイスラエルの人口を遙かに超えているとされ、しかも、ほとんどが上流階級・資産家に属していると言われます。しかし、ユダヤ人は、かつてキリスト教を迫害して、イエスや使徒達はじめ多くの信者を殺していたという宗教的理由などが挙げられます。これは、キリスト教信者が感情的にユダヤ人を嫌う原因となります。

 宗教とは、心の支えとなるもので、それを否定する態度は自分を否定していると見るからです。西洋人は大半がキリスト教徒でしたから、自分の宗教の祖を殺したユダヤ人というものに嫌悪感をもっていたというわけです。もちろん、ユダヤ人にとってみれば、イエスの活動は逆に自分たちユダヤ教の危機だったからですが、こうした姉妹宗教は母体が同じだけに対立も激しくなってしまったのです。

 こうして、西洋・キリスト教徒はユダヤ人を憎み、この果てにヒトラーによるユダヤ人の大虐殺が起きた。ヒトラーのしたことは、精神的にユダヤ人迫害をしていたキリスト教徒のしたことと同じでした。そのために、西洋人はユダヤ人に対して非常に強い負い目をもつことになってしまい、それが仇となって、今度は「ユダヤ人が何をしてもそれを批判することができない」という、精神的・社会的状況ができあがってしまったのです。そのため、パレスチナ問題においても、イスラエル側が圧倒的に悪いということを知りながら、それを批判することができず、むしろ支援するということになってしまったのでした。それをいいことに、イスラエルの指導者がパレスチナに対する迫害・攻撃を激化させているのが現状で、欧米の文化人やイスラエル内部の一般民衆にすら、こうしたイスラエル指導者のあり方を批判する人々が増えてきているのは事実です。

 

オスマン帝国とアラブ・イスラーム  

 こうした泥沼のパレスチナ問題を生み出した直接の原因はイギリスにあります。これは、パレスチナ問題を語る時は必ず指摘される事なので、すっかり有名になっていますが、いわゆるイギリスの三枚舌というものです。これは、第一次世界大戦に関係していますが、これはとんでもない欺瞞でした。この時代に、イギリスは中東を占拠して支配していましたが、その回りにあるイスラーム国はオスマン帝国でした。そして、長年オスマン・トルコに支配されていたアラブ・イスラームの民族は、異民族であるオスマン・トルコの支配に嫌気がさしており、独立を狙っていたのです。すなわち、18世紀半ばにアラビア半島でワッハーブ運動が起こり、トルコ的やペルシア的となっていたイスラームのあり方に反旗を翻し、「ムハンマドに立ち返れ」と唱えました。これにアラブの部族が賛同して、ワッハーブ王国(1744~1889)が樹立します。オスマンからアラブが独立していく最初となります。それに続くように、エジプトでも、ムハンマド・アリー(1769~1849)が出現して勢力を伸ばし、エジプト総督の地位をオスマンに認めさせてしまいます。そして、ここから近代エジプトが出発するのです。ただし、エジプトはやがてイギリスに乗っ取られてしまい、再び独立への運動を始めなければなりませんでしたが、アリーによる独立エジプトという性格が近代エジプトであることには変わりません。しかし、問題が起きた時の中東地方の支配者は侵略者のイギリスでした。

 

イギリスの欺瞞、三枚舌  

 こうした動きの中で、「ドイツ・オーストリア対イギリス・フランス・ロシアの連合軍」との間で第一次世界大戦が勃発し、オスマン帝国はドイツ側につきました。これに対して、イギリスはアラブ側に書簡を送り(『フセイン・マルクホン書簡』)、アラブの助力を乞うて、その中で戦争終了後パレスチナ地方の返還を約束したのです。こうして、アラブはオスマン帝国に対して攻撃を開始したわけです。この時「アラビアのロレンス」が活躍したわけですが、結局、彼は祖国イギリスに裏切られてしまう。一方、イギリスは、同盟国であるフランスなどと戦争終結後のパレスチナから、アラブ・エジプト地方の「分割統治の密約」を交わしていました(『サイクス・ピコ条約』)。さらに、イギリスは、「ユダヤ資本」に目を付けて、ユダヤの支援が得られたその暁には、パレスチナに「ナショナル・ホームの建設」を許可するとの約束をした(『バルフォア宣言』)。以上の相異なる矛盾の約束を三枚舌と呼んでいるわけです。

 戦争が連合国側の勝利で終わった時(1918)、イギリスは、アラブとの約束を反古にして、「ランスとの共同統治に入りました。一方、ユダヤ人は、イギリスとの約束に従って、続々とパレスチナに入ってきます。この時期のユダヤ人は、豊富な資金と商売力に物を言わせて、何もわからないパレスチナ人から安く土地を買い占めるというやり方をとっていました。少なくとも武力による追い出しではありませんでした。そして、連合国の後押しで始まっていたバルカン諸国の独立運動などもあり、1922年、オスマン帝国は崩壊しました。こうした状況に、1930年頃からナチス・ドイツが台頭してきて、ヨーロッパでのユダヤ人迫害を激しくしていきました。そのため、パレスチナに向かうユダヤ人は激増し、当然パレスチナ人との間で摩擦が生じるようになります。この間、アラブ地方ではサウジ・アラビア王国とイラク王国が独立しています(1932)。そして、1939年、ナチスによるドイツとイギリス・フランスとの間で戦争が勃発し、第二次世界大戦となっていきます。

 1940年代にはいり、ナチスのユダヤ人迫害は激しさを増し、いわゆる大量虐殺「ホローコースト」が起きます。ユダヤ人のパレスチナ流入は、さらに激しさを増して当然でした。一方、イギリスにさっさと裏切られていたアラブ諸国は、結束の大事さを痛感して、大戦終結の年である1945年、アラブ諸国連盟を結成しています。イギリスは、ようやくパレスチナ地方から撤退しましたが、後始末が何もできていません。ここで尻ぬぐいということで、国連がパレスチナ分割案を採択してきた。しかし、この当時の国連は欧米諸国だけのもので、アラブ・アフリカ・東洋諸国はじめ、後発の国々や発展途上国はおりません。欧米の利害だけでことは決められてしまった。ここで台頭してきたアメリカが大きな影響力を発揮してきました。アメリカは、ユダヤ資本に依存していた国ですから、イスラエル寄りの決議になるのは火を見るより明らかであったわけです。そうして、イスラエルの建国ということになり、勝手に線引きが行われ、これに基づき、イスラエルは、1948年独立を宣言し、後押しをしていたアメリカが即座に承認し、また、この地方への影響力を残したいソ連も承認に踏み切りました。アラブは、当然先のイギリスとの約束があるわけですから、これに反対していきます。しかし、アメリカのバックのもとに、ついにイスラエルは武力でパレスチナ人の追い出しに踏み切り、ここにパレスチナ難民が生じていくことになります。そして、そのイスラエルによる国土拡大は国連決議を越えて、どんどん拡大されていきました。そうした中で、迫害され難民となっていたパレスチナの若者が結集してパレスチナ解放戦線も結成されていきます。迫害から16年も経っていました。ここからの現代史はもっと複雑になり、泥沼になっていくわけです。ともかく、第一次、第二次、第三次、第四次と続く中東戦争が続発します。

中東戦争

 パレスチナ地方に限っては、ことごとくアメリカの新兵器を大量に持つイスラエルがパレスチナ人を追いつめ、領土を拡大していき、パレスチナ難民は激増し、時にはその難民地が爆撃されて、多くのパレスチナの難民が殺されていったのでした。こうした中で、パレスチナ側の自爆攻撃が生じるようになったわけです。

宗教 

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