経営戦略誕生まで

孫氏の兵法 紀元前500年頃

「戦略」の概念を世界で最初に用いたのは「孫子の兵法」であるとされている。約2500年前、中国春秋時代の斉の国に生まれ、呉の将軍となった 孫武 によるとされ、13篇から成る最古の兵法書です。戦略という言葉は使われていないが、国家戦略から戦術論などレベルに応じた思考法を示しており、その内容は現在でも普遍的に適用されています。

 

 

クラウゼヴィッツの戦争論 1832年

カール・フォン・クラウゼヴィッツは、ナポレオン戦争にプロイセン軍の将校として参加した。死後発表された『戦争論』は その後の西欧における戦争の戦略本のバイブルとなりました。

「戦略」という概念を、国家の政治目的と捉えて組織論、意思決定論を展開したのがクラウゼヴィッツの戦争論である。こちらも戦略論の古典として現代においても多方面で活用されている。

 

 

経営学が誕生した時代(1900年頃から1930年代まで)

18世紀後半から19世紀前半にかけて、産業革命以降イギリスにおける技術革新によって、生産活動の機械化・動力化、工場制の普及、産業資本家層と工場労働者の階層の誕生など、農村社会から資本主義的工業社会への大転換、すなわち、産業革命が起こりました。
 当時は作れば売れる時代だったので、成功の鍵は資本力があるかどうかでした。やがて、工場での劣悪な労働環境から産業資本家層と工場労働者の階層間の争いが激しくなり、産業革命から約100年後に誕生したのがテイラーの科学的管理法です。現代の経営学や生産管理論の基礎とも言われています。

 

 

「科学的管理法」がもたらした劇的な生産性向上

当時の工場の様子は、「怠業」と「不信」「恐怖」にあふれていました。単純な出来高払いの給料制だったので、働くだけ給与は上がるはずでしたが、給与が増えすぎると管理者側が勝手に賃率を下げたので、手取りは変わりません。働くだけムダだと「組織的怠業」が蔓延し、「頑張るヤツは迷惑」という同調圧力までかかる始末。管理者(親方)はそれに対して、「精進と奨励」を(叱責や解雇という形で)説くだけでした。フレデリック・テイラーは、現場でそれを目の当たりにした。これでは誰も幸せになれないと。

テイラーは、現場の生産性向上のために様々な実験・研究に取り組むようになります。

 

科学的管理法は、テイラーが20世紀初頭に提唱した労働者管理の方法論です。「テイラー・システム」とも呼ばれます。テイラーは、労働者と原材料などの経営資源を いかに組み合わせることで生産性が高まるのかを鋳物工場で調査し、分業と協業による科学的管理法を発明しました(1911年)。
 それまで ひとりで何工程も担当していた工場工程を、ライン生産方式によってコストを10分の1以下にまで改善することに成功し、作業効率の向上と賃金の増加をもたらしました。20世紀初頭にフォードがベルトコンベアーを導入することで、分業化、流れ作業化を実現し、T型フォードと呼ばれる黒一色のみですが、壊れにくく比較的低価格の車の世界初の量産化に成功しました。

 

 テイラーの唱える科学的管理法の内容は次の5つです。
課業管理
作業研究
指図票制度
段階的賃金制度
職能別組織

②作業研究は、時間研究と動作研究からなり、熟練工のムリ・ムダ・ムラの無い作業を、未熟練工に伝えることを目的にしています。それに従って、①課業管理で「1日の公正な仕事量」を定められ、③指図票制度で「使う道具や時間、作業」が標準化され、マニュアル化されます。④段階的賃金制度は、作業者のモチベーションを引き出すためのもの。1日の課業(公正な仕事量)を超えれば賃金が上がります。それらを計画・管理するために、⑤職能別組織で彼は計画機能と執行機能に分け、各々に専門部門を置きました。

経営戦略はその時代時代の要請や環境・状況への対応方法でその姿を変容させます。テイラーの時代は、大量生産のために、若い未熟練工が大量採用され、スキルアップの訓練が必要になった時代。労働者側は、公正な条件下でのより高い賃金を求めていましたし、経営者側は、生産量の拡大と生産効率の向上が喫緊の課題でした。テイラーの科学的管理法は、その両者のニーズを満たすものだったのです。

「管理の目的は労使の最大繁栄」にある。そして、従業員の繁栄とは、賃金だけでなく、「生来の能力の許すかぎり最高級の仕事ができること」だと。

 経営を工場や現場の科学的管理だとして、その生産性の向上とともに、作業者の働き甲斐アップを図ったのです。

 

 

テイラー流を極めたフォード生産システム

T型フォードの車で有名なヘンリー・フォードは、一般大衆にでも購入できる車の生産を開始します。車の生産の工程を徹底した分解をし、単純作業化しました。そして、フォードで働く従業員に高賃金で作業に従事させました。 

このT型フォードの高品質と低コストの両立を可能にしたのが、「フォード生産システム」でした。

 

特徴は
作業の時間・動作分析から、作業の標準化・マニュアル化を徹底する
徹底した「分業化」
「流れ作業」- ベルトコンベヤ方式

 

同種の製品を大量生産(少品種大量生産)するために
熟練工の作業は何十・何百の単純作業に分割
サブの生産ラインはすべて、最終組み立てラインと同期化

 

これにより、大量の非熟練工(当然熟練工より賃金は安い)を採用して、滞留・停滞が許されない連続生産を労働者に課すことにより、寸分の狂いもない能率的な大量生産システムが誕生したのです。

 

企業とは社会の公器である

フォード自身は、「フォーディズム」と呼ばれる経営感を持っていて、「大衆へのサービス精神」「利潤動機より賃金動機」を重視し、企業とは公の存在で、公僕として広く社会や顧客に奉仕すべきであって、「利潤」は企業目的ではなく、「結果」であると考えました。経営者としては、「より多くの賃金を従業員に払う」ということを経営の動機とすべきとの意見でした。

 

「奉仕を主とする事業は栄え、利得を主とする事業は衰える」

離職者対策の意味もありましたが、フォードは、従業員の賃上げに尽力し、1914年からは日給をそれまでの2倍の5ドルに引き上げました。夫婦そろってフォードに勤務すれば、世帯年収が2000ドルを超える水準です。さらに、殺到する注文をさばくために、工場は24時間3交代制でしたが、労働時間は9時間から8時間に短縮されました。その結果、全米から就職希望者が集まり、その従業員たちが、T型フォード車の顧客となるという巨大な経済循環が生まれました。

フォードが編み出した、生産効率の高い、低コストの大量生産システムは、その後の半世紀にわたって、工業化社会・大衆社会・大量消費社会の基本モデルとなりました。

 

 

エルトン・メイヨーのホーソン実験 1927年

ホーソン実験とは、シカゴにあったウェスタン・エレクトリック社の工場で1924年から1932年まで断続的に実施されたものです。

ハーバード・ビジネス・スクール(HBS)に招聘されたメイヨーは、1927年、電話機製造会社ウェスタン・エレクトリックのホーソン工場において、テイラーの「科学的管理法」導入による調査結果の矛盾の謎に取り組むこととなります。

ホーソン工場では、実験対象となったチームの生産性は、照明を明るくしていった時も、逆に暗くしていった時も どんどん上がっていったのです。しかも、照明を変えていないチームの生産性まで上がってしまった。

メイヨーは、「非公式組織」について、① 仕事に精を出すな、②仕事を怠け過ぎるな、③上司に告げ口するな、④偉ぶったり おせっかいをやくな、という「4つの感情」に支配されていることを知ります。仲間に迷惑をかけずにうまくやるという感情が働いていたのです。

 

生活水準の向上が人間を「経済人」から「社会人」に変えた

実験の結果、企業での生産性向上というテーマは、コストや効率を重視し、「科学的に人々の行動を観察・分析・理解」し、ただ数字(定量情報)を扱うものから、人の感情やインフォーマルな人間関係といった定性情報も重視しなければならない、ということが分かってきました。お金のためにあくせく働く人から、楽しく・生きがいを持って働く人、という労働者への見方の変化が そこにはあります。

生産性は労働者の集団心理的側面、すなわち、感情、モチベーション、プライド、職場の人間関係、信頼関係、対話によって大きな影響を受けることを科学的に実証しました。

生活水準の向上が経済人モデルから社会人モデルへと変化しました。

 

メイヨーが行った実験から得られた洞察は、現代の我々にもなじみの深い各種施策・研究に引き継がれています。

・モチベーション研究
・リーダーシップ研究
・カウンセリング研究
・提案制度
・小集団活動 など

 

 

「人間関係論」の進展

メイヨーの「人間関係論」は、人の行動の原因を探る「行動科学」へ引き継がれていくことになります。その代表格が心理学者のマズローです。マズローは、ヒトは、最終的に「自己実現」に向けて、動物にもあるような低次の基本的欲求から、高次のヒトらしい欲求まで、欲求には段階があるという「欲求5段階説」を唱えます。(数字は満足度)。

  • 生理的欲求(85%)

安全欲求(70%)
愛・所属欲求(50%)
自尊の欲求(40%)
自己実現の欲求(10%)

さらに、マズローの「欲求段階説」を引き継いだ マグレガーの「XY理論」へと発展していきます。人間に対する2つの対立的な考え方を、「権限行使による命令統制のX理論」と「統合と自己統制のY理論」に分け、「低次元の欲求が満たされている人に対してはX理論による経営手法の効果は期待できない、低次元の欲求が満たされている1960年代ではY理論に基づいた経営方法が望ましい」としました。

 

「X理論」
「人間は本来なまけたがる生き物で、責任をとりたがらず、放っておくと仕事をしなくなる」

という考え方で、この場合、命令や強制で管理し、目標が達成できなければ懲罰といった、「アメとムチ」による経営手法が効果的と考えられます。

「Y理論」
「人間は本来進んで働きたがる生き物で、自己実現のために自ら行動し、進んで問題解決を

する」という考え方で、この場合、労働者の自主性を尊重する経営手法となり、労働者が高次元欲求を持っている場合有効であると考えられます。

 

 

ファヨールが「経営管理プロセス」を定義した
フランスの鉱山会社の経営者だったフェヨールは、企業における必要不可欠な活動を、6つに分類・整理し、「経営管理」プロセスを確立しました。

  1. 技術活動 = 開発、生産、成形、加工 [開発・生産]
    2. 商業活動 = 購買、販売、交換 [販売・購買]
    3. 財務活動 = 資本の調達と運用 [財務]
    4. 保全活動 = 資産と従業員の保護 [人事・総務]
    5. 皆生活動 = 棚卸、B/S、コスト計算、統計 [経理]
    6. 経営活動 = 計画、組織化、指令、調整、統制 [経営企画・管理]

 

さらに、経営管理とは計画・組織化・命令・調整・コントロールを回すことだとしました。それらは、ポーターのバリュー・チェーン、PDCAサイクルに通じる思想といえます。

 

 

テイラーは工場を管理し、ファヨールは企業と人を統治した

メイヨーの「人間関係論」が出てくる前に、ファヨールは「常に従業員や組織の状態に気を配ること」を求めたという。「経営活動」には一般的・普遍的に守られるべき14の原則にまとめられるとしました。

さらに、ファヨールは企業の経営管理プロセスを示しました。経営管理活動を5つの要素に区分しました。

 計画(Planning):将来予測や経営資源を踏まえて活動計画を立てる
 組織化(Organizing):仕事に合った組織を作り、ヒト・モノ・カネを提供する
 指令(Commanding):従業員の状況に精通し、生産性最大化を図る
 調整(Coordinating):諸活動間のバランスとタイミングをとる
 統制(Controlling):フィードバックによりエラーを減じ、諸活動が計画通り遂行されるようにする

 

ファヨールによれば、この「POCCCサイクル」を回し続けることが企業を経営・管理することであり、それは組織の別によらず、普遍的であると主張します。この「経営管理サイクル」というコンセプトは、「PDS(Plan-DO-See)サイクル」「PDCA(Plan-Do-Check-Action)サイクル」に引き継がれたと言われています。

 

 

バーナードが「経営者の役割」を示す

人間性をも取り込んだ経営の方向性は、科学と理論を実践する監督者としての経営者のあり方に疑問を生じさせる新たな考え方であった。その潮流のなかでも、チェスター・バーナードの経営思想は実業界に多大な影響を与えている。

アメリカの電話会社社長だったバーナードは、企業体を単なる組織でなくシステムとして定義しました。経営に対して「戦略(Strategy)」という軍事用語を用いたのは彼が最初です。

ハーバード大学の公開講座で示した講義内容を書籍した『The Functions of the Executive』(1938年)は、経営組織を2人以上の人間によって意識的に調整された活動と諸力のシステムであると定義する。経営者の役割とは、その社会的な協働システムに対して共通の目的を与え、参加人員の貢献意欲を高め、そして、従業員相互のコミュニケーションを活発化させることにあるという。

 

バーナードも、ファヨールと同じく、経営のプロとして実体験からの経営戦略・経営哲学を語ることになります。企業体を単なる「組織」ではなく「システム」として定義します。そして、その成立条件として、

1.共通の目的(=経営戦略:彼がこの軍事用語「戦略」を初めて経営に持ち込む)
2.貢献意欲
3.コミュニケーション

の3つを挙げました。

経営者は、自ら目的を作らなければなりません。そして、それを実現するために作戦を考え、連絡を密にし、士気(モラール)を高めるというわけです。自らの組織(=システム)に、「共通の目的(=経営戦略)」を与えるのは経営者の役割なのだ という考え方自体が、当時は画期的でした。経営学史的には、彼が、経営学の古典理論(テイラー・ファヨールなど)・新古典理論(メイヨーなど)と この後の近代マネジメント論の結節点、として捉えられています。

 

「公式組織の社会学」。そして、公式組織にまつわる必要不可欠な要素である「権威」。「権威受容説」として有名なもので、『権威』とは本質的に主観的性格のもので、公式の同意と、権威に従うといわれる人々の非公式の同意、ないし無関心を含むものであると定義されています。もう一つの要素は「有効性と能率」。バーナードにとって、「能率」とは協働に関与者の満足の度合いを指すものとなっています。

 

 

バーナードが説明した協働システムとしての経営組織のあり方は、ハーバード・サイモンの『Administrative Behavior』(1947年)によって高度に理論化される。

サイモンは、経営組織とは、人間の限定合理性と不完全情報を前提とした、客観的な合理性を備えた判断を範囲の限定によって可能とする装置だと理論化した。意思決定の本質を単純な原理原則の集合として理解し、それを束ねる存在としての経営のあり方を提示して、その科学的な理解を深めたのです。

 バーナードが説いた経営哲学は、さらに ピーター・ドラッカーの『Concept of the Corporation』(1946年)や『The Practice of Management』(1954年)によって再定義された。

ドラッカーはマネジメントの概念を世に広めた世界的な思想家です。マネジメントを経営管理ではなく、戦略をも内包する一段高いものとして捉え、経営の本質はマーケティングとイノベーションだとしました。

「企業の目的は顧客の創造である」、「組織とは個人が自己実現するための手段である」、「企業は社会などの公益のためにある」など、数々の名言があります。

 

『Concept of the Corporation』は、ゼネラルモーターズの事業部制がもたらした功罪に対する分析から、組織活力を向上させるための分権化、権限移譲と労働者の自己管理の推進を行い、作業者を管理すべきコストではなく、活用すべき経営資源ととらえるべきと主張した。また、『The Practice of Management』では、社会的存在である企業のあり方をさらに推し進め、企業の存在価値とは、最終的には顧客や市場が決定するという考え方を提示して、マネジメントのあるべき姿を広く世に示した。

 ここに至ったことで、社会における経営者、経営組織、労働者のあり方に対する理解が一つの完成を見る。依然として、企業経営の文脈において経営戦略という言葉は一般的ではなかったが、それに必要とされる要素は出揃ったのです。

 

テイラー(科学的管理法)とメイヨー、ファヨールなどの(人間関係論)と近代マネジメント論をつなぐ接点となりました。

 

 

ところで、戦争を定量的、統計的、数学的に始めて扱ったのが第一次世界大戦時に発表された「ランチェスターの法則」である。戦略は基本的には戦争論の中の分野として発展してきている。

第二次世界大戦の終結と共に大規模な軍事拡大時代は終わりを告げる。同時に、それまで軍需産業の発展に伴って著しい成長を遂げてきたアメリカの経済が転換期を迎える。企業規模も拡大し、環境の変化を予測した上で、製品の上市、組織の改変、事業の多角化などを計画的に推進する必要に迫られていた。そうした中、本来軍事用語であった「戦略」という用語に「経営戦略」という新たな概念が付与されることになった。初めて「経営戦略」という言葉を使ったのは、「ゲーム理論」を発表した ノイマン と モルゲンシュテルン だと言われている。

 

 

第二次大戦後勝利したアメリカは1950年代黄金期を迎えます。当時のアメリカは世界の工場として大量生産大量消費を謳歌し、世界中から優秀な人材や資本を集めていました。まさにアメリカは夢の国だったのです。当時の経営の課題は、ヒトや資源などの経営資源をいかに効率化するか等、企業内部の問題、すなわち、経営管理が中心でした。しかし、次第に市場が飽和してくると、更なる成長のための新規事業や新市場の開拓、長期の計画の重要性を増してきました。
 経営の課題が、企業内部のマネジメントから、企業外部での戦い方や長期的な将来戦略を考える必要性が出てきたのです。こうして経営戦略論が誕生しました。

 

経営戦略が生まれる前の時代のアメリカ人経営者にとって、利益を上げるための重要な要素

は、顧客(customer)、競合(competitor)、コスト(cost)の「3C」でした。当時の競争の力学は、自社と他社という見方のみで、自社の製品や経営に相手が対抗してくるという発想はありませんでした。
 当時は、競合より先に顧客の求める新製品を発売し、そして、製造コストを下げることが利益を高める上で重要なポイントでした。これはその時代の背景も影響しています。
 戦後の高度成長期は、常に技術が進歩し、新しい製品が生まれていました。家庭の娯楽は、かつてはラジオでしたが、テレビが現れ、そして白黒からカラーテレビに変わりました。顧客も常に新しい製品を求めていました。従って、常に競合よりも早く新製品を提供すること、これが当時の企業間競争において最も重要なテーマでした。

 

 1950年代には、企業経営の上において、未だ経営戦略と言う概念はそれほど重要な意味を持たなかった。当時は、経営管理を、計画、組織、指揮、調整、統制と言う諸機能の過程として捉える考え方が一般に理解し易く、広く受け入れられていた。ファヨールに始まる このような考え方を受け継いだ管理過程論あるいは管理原則論の中では、経営戦略は独立した位置さえ与えられていませんでした。

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