MBAや経営戦略コンサルティング会社の勃興

MBA(Master of Business Administration)は、経営について学ぶ職業訓練的な犬学院レベルの修士課程です。古くは19世紀末に誕生しました。その後、朝鮮戦争などによりマネジメント層の速成が必要とされるようになり、この時代から急速に需要が拡大していきました。そして、これらの優秀な学生たちを受け入れて急成長したのが、戦略コンサルティングファームと呼ばれるマッキンゼーアンドカンパニーや、ボストンコンサルティンググループです。

マッキンゼーは、1926年にシカゴ大学経営学部教授のジェームズ・マッキンゼーにより設立されましたが、1950年から17年間代表を務めたマーヴィン・バウアーによって戦略コンサルティング会社としての地位を高めていきました。

 

 

マッキンゼー

世界最大の経営コンサルティングファームであるマッキンゼー・アンド・カンパニーは、ジェームズ・マッキンゼーが無くなった後に、実質的なスタートを切ります。2つに分裂した組織の片割れを創業者の名前と共に引き継いだのが入社6年目、36歳の元弁護士マーヴィン・バウアーでした。バウアーは、マッキンゼーを経営「エンジニアリング」会社から経営「コンサルティング」会社に仕立て直しました。

ハーバード大学での法学修士とMBA(経営学修士)も持つバウアーは、「経営コンサルタントとは、医師や弁護士のようなプロフェッショナルである」と初めて定義しました。「近代マネジメントコンサルティングの父」と呼ばれています。

それまでは、コンサルティングといえば、グレイヘア(白髪のベテラン経営者など)による経験と人脈による企業へのアドバイスでしたが、バウアーは、若く優秀なMBA卒業生にデータ分析を基に経営アドバイスを行う新しいコンサルティングスタイルを確立し、流行りの事業部制の導入支援などの組織コンサルティングや、企業診断ツールの開発などで急成長しました。

バウアーは、マッキンゼーを「経営と組織の間の問題に取り組むプロフェッショナルチーム」と定義したのはよいものの、具体的なコンサルティングサービスを確立するまで数年間の試行錯誤を続けます。彼が見つけ出したのは「組織コンサルティング」でした。

 

戦略コンサルティング会社の存在を一躍有名にしたのは、「BCGマトリックス」あるいは「成長/市場シェアマトリックス」と呼ばれる方法論である。この方法論は、「多数の事業が併存するなかで、どの事業に追加で投資し、どの事業を縮小すべきなのか」という課題に1つの明確な答えを提示することで、大きな注目を浴びることとなる。

このマトリックスを世に広めたのは、ボストン コンサルティング グループ(BCG)なのです。

 多角化の時代より以前にも、コンサルティング会社は外部の専門家として企業の経営支援に携わり、大きな成果を上げてはいた。フレデリック・テイラーは、生産工程の専門家として多くの企業の経営支援に関わっていた。それ以外にも、財務会計や管理会計の手法、労務管理や生産管理の領域など、高い専門性を求められる多くの分野ですでに活躍していた。

 さらに、アンゾフが戦略的意思決定の重要性を世に広め、それが組織的かつ科学的に実践されるようになると、経営の意思決定がより複雑化し、そこに携われる専門家集団の需要がいっそう高まるようになる。そうして、実務家でも研究者でもない、第三の存在であり、実務家や研究者の知見の伝道師であるコンサルティング会社に対して、戦略的意思決定の支援を望む声がこれまで以上に大きくなったと言える。その要請にまず応えたのはマッキンゼー・アンド・カンパニーだったのです。

 

 

バウアーは商品を絞り込み、作業を標準化した

1950~1960年代のアメリカは、チャンドラーが『組織は戦略に従う』で看破したように、大きな組織変革期にありました。事業の多角化・海外進出が組織の分権化を強く要請していました。バウアーは、そうした時代の要請に応えるように、「事業部制の導入支援」をコンサルティングサービスの主力商品に据えたのです。

同時に、彼は、総合的な企業診断ツール「ジェネラル・サーベイ・アウトライン」を完成させます。これは、クライアント企業の組織、プロセス、実績、予算などの効率性を、定量的に測定する標準手引書(コンサルのマニュアル)となります。創業者が発案し、バウアーが大幅改訂したこの包括的企業調査マニュアルは、経験の浅い新人コンサルタントを戦力化するのに大変役立ちました。新人たちは、これを頼りにクライアントからヒアリングし、レポートにまとめれば、それなりの企業分析レポートが完成する、というわけです。この「ジェネラル・サーベイ・アウトライン」は1962年まで新人研修の一部を占めていました。

バウアーは、コンサルティングファームの提供する「商品の絞り込み」と「作業や答えの標準化」によって、マッキンゼーをプロフェッショナルファームがよく陥りがちな「成長の壁」を超えて、大きく飛躍させることに成功しました。「成長の壁」とは、一般的に、高度に労働集約的で、かつ深い知識と経験を要求されるため、ベテラン中心でないと業務が回らず、そういったベテラン(高い習熟度を持った人材)は短期間に育たないので、急成長しようとすると、サービス品質の低下等を招いて、組織拡大(ややもすると組織運営そのもの)に失敗することを意味します。

マッキンゼーは、その社史に記すように、その後の1970年代を苦しみながら過ごすことになります。チャンドラーの予言通り、「(企業・事業)戦略そのものの変革」が大切になってきたからです。オイルショック(1973年)の大波に苦しみ、単純な事業拡大(多角化)に行き詰ったクライアント企業から、「多角化するから事業部制にする」だけではなく、「事業部制にしたが、そのあと戦略はどう変えるか?」や「多角化以外の戦略を採用したらどうなるか?」といった問いを突きつけられるようになりました。それは、「組織戦略」ではなく、「企業戦略」や「事業戦略」の話になります。

当時のマッキンゼーは そこへの準備はまだ不十分でした。その間隙を突いて急成長したのが ブルース・ヘンダーソン率いる新興コンサルティングファーム、ボストン・コンサルティング・グループ(BCG)だったのです。

 

 

ボストン コンサルティング グループ(BCG)

ブルース・ヘンダーソンが、ボストン コンサルティング グループ(BCG)を1963年(48歳のとき)に立ち上げました。「企業や市場を徹底的に分析して、それを動かしているシステムを見つけ出したい」というヘンダーソンの知的欲求がBCG設立の原動力でした。

 

経験曲線の誕生

航空機製造にかかる1機あたりの労働投入量は製造機数が倍になるたびに2割減少する。製

造・販売にかかる全コストに拡張、そして、累積の生産量を「経験量」として場合に、累積経験量が倍になると生産量あたりのコストが一定割合ずつ減少していく。

これは、当時の日本の企業が短期的利益の度外視をした戦略でアメリカ企業を大いに悩ませていました。この経験曲線の理論で日本企業の経営活動がよく分かったのです。

生産・販売量を増やして市場シェアを上げれば、経験曲線を競合より早く駆け下りることができる。そうすれば競合より低コストになり、競合に対して優位に立てる。

ヘンダーソンは、財務論の専門家だったアラン・ゼーコンをヘッドハントします。アラン・ゼーコンは、自社の事業で借金を増やして、低価格で経験量を増やしてコストを下げる日本企業のやり方を、「持続可能な高成長」を遂げていると衝撃なメッセージを経営者に伝えました。

 

航空機メーカーは、1925年には、生産量を増やせば増やすほど製造コストが低下することに気づいていました。その後、1964年ウィンフレッド・ヒルシュマン教授が、ハーバード・ビジネス・レビュー誌に「学習曲線から得られる利益」という論文を発表しました。
 ブルース・ヘンダーソンは、クライアント企業が競合他社に価格で太刀打ちできない問題を解明するため、クライアント企業の原価と競合の価格、業界のコスト傾向を調べていました。そして、生産量の増大とコスト低減の関係を経験曲線として体系化して理論にまとめました。
 この理論によれば、どのくらい生産量を増やせば、コストがどのくらい低減するかが定量的に把握できました。

 電動工具メーカーのブラック・アンド・デッカー社は、1950年代末に電動工具の市場シェアが20%に達し、そこからはシェアが頭打ちになっていました。BCGのコンサルティングチームは、製品の価格を引き下げれば販売量は著しく増大することをアドバイスしました。
 販売量が5万台/年の丸のこぎりの価格を30ドルから19.95に引き下げたことで、60万台/年 売れるようになりました。この戦略により、1964年に1億ドルだった同社の売上は、5年後には倍増し、10年後には5億ドルを超えました。

 一方、経験曲線に頼る戦略は果てしない価格競争に陥る危険性がありました。また、実際の経験曲線の勾配は、産業より異なり、企業の期待より15~25%ほど逸脱することがありました。

そして、成長マトリクス(PPM)が生まれます。

 

 

PPM(Product Portfolio Management)
 マッキンゼーの投資優先度スクリーンや、ボストン・コンサルティング・グループの成長率・市場占有率マトリックスなど、独自のフレームワークが考案されている。
 PPM(プロダクト・ポートフォリオ・マネジメント)は、プロダクト・ポートフォリオを解析し、全社レベルの資源配分の見地から、各事業の注力度合いを判断する経営手法を指す。
 1970年代に、マッキンゼーやボストン・コンサルティング・グループなどのコンサルティング会社が、多角化を進める多品種・多市場の企業の戦略を構築・診断できるように設計した様々な手法を打ち出した。もともとは、GEの戦略的事業単位(SBU)を評価するために考案されたものといわれている。

事業ポートフォリオの特性を一覧できるという利便性を提供すると同時に、キャッシュを生み出す事業とキャッシュを求める事業のバランスを一覧することも可能にした。各事業への投資と事業ポートフォリオの組み替えるうえで、特にキャッシュフローの配分に関する明朗な議論を実現したのです。そうして、BCGマトリックス(PPM)と、それと同時期に開発された経験曲線を武器に、BCGはコンサルティング会社としての知名度を飛躍的に高めていった。

BCGマトリックスは、それを生み出した戦略の伝道師たるコンサルティング会社と、そこに大量の人材を安定供給したビジネススクールの助けも経て広く受け入れられていった。

 BCGマトリックスは、縦軸に市場成長率、横軸に相対的市場シェアを取り、事業を4象限に分類する。そして、左下のマトリクスから時計回りに「金の成る木」「花形(エース)」「問題児」「負け犬」の4種類に事業を分類する。「金の成る木」では投資を抑制してキャッシュを生み出し、「花形」にはキャッシュを注ぎ込み、「問題児」は「花形」になれるかを見極め、「負け犬」からは撤退を検討する。これが最も基本的な説明です。

最適なキャッシュフローの再配分を実現するためには、左下の「金の成る木」から右上の「問題児」へ再配分を行い、「問題児」をできる限り右上の「花形(エース)」に成長させるべきだとする。また、右下の「負け犬」に対する投資は極力抑制し、できるだけ早い段階で事業からの撤退や売却も検討すべきとする。

 

PPMは多角化した企業の事業ポートフォリオの再構築に役立ちました。特に、1970年代のアメリカは、景気停滞とインフレに陥り、多角化し肥大化した事業体をどのようにマネジメントしていけばよいか、というのが大企業における共通の課題だった為、どの事業体にどれだけの投資をすればよいのか、明快な解を導く事が出来る PPM は企業にとっても最適なものだった。

 

BCGは「使える戦略ツール」を提供して成功しました。

・「持続可能な成長方程式」→将来を予測でき、財務と成長を結びつけた

・「経験曲線」→将来を予測でき、競争力を測れた

・「成長・シェアマトリクス」→事業間の資源配分ができた

こうした、知的なツールを開発したBCGのメンバーを、ウォルター・キーチェル三世は「大テイラー主義」と名付けました。

 

現代の大企業の大多数は複数事業を営んでおり、専業の方が珍しいと思います。例え、専業であっても、取扱い製商品・サービスは複数種類あるのが通常ですので、どの企業の経営者も、

自社の経営リソースをどういう基準で配分するか
どの事業に投資すれば一番儲かるか

が根源的な経営課題のひとつとなります。その問題に正面から立ち向かい、現代に至るまで誰もが一度はそのフレームワークで事業ポートフォリオ問題を考えたであろう、決定的な経営戦略ツールをヘンダーソンは発明します。

「時間」:経験曲線によるコスト競争力誕生の秘密を解き明かし、
「競争」:持続可能な成長率を算出して競争優位のための先行投資可能額をはじき出し、
「資源配分」:事業成長のための集中投資の判断基準を可視化しました。

 

 

「経験曲線」が教える未来予測と、そこから生み出された競争原理

競合他社とのコスト競争力に悩んだゼネラル・インスツルメンツのテレビ事業部が、BCGに調査を依頼してきたことが全ての発端でした。ヘンダーソンは、当初から自分が興味を持っていた「学習効果」の効用を調べ始めました。

彼らが発見した法則は、

・企業の当該事業における経験量(累積の生産・販売数量)が倍になるとコストが一定割合で減少していく、「経験曲線」が成立する
・競合他社との競争に打ち勝つためには低コスト生産が早道である
・自社と競合の相対的コスト優位性は、経験曲線で予測・推測することができる
・生産/販売数量を増やして市場シェアを上げれば、経験曲線を競合より早く駆け下りれば、低価格戦略で競合に市場で勝てる

「経験曲線」については、「対数グラフ」で表示すると直線で表記することができ、将来予想コスト(販売可能価格)を割り出しやすくなります。

 

これは、当時アメリカ企業が頭を悩まされ始めた日本企業の行動原理を説明したものでもありました。市場シェア拡大を求めて(短期的な利益を度外視して)低価格戦略を採る姿に、違和感を抱いているだけだった企業が多い中で、BCGは言ったのです。「あれは正しい。見習うべきだ」と。

現在では、市場至上主義、シェア至上主義を採る企業はダメ扱いですが(その理由は別の機会に)、日本の高度経済成長期において、「大量生産大量販売」方式のビジネスモデル下では、このようなコストリーダーシップ戦略の実現形が大変有効だったということです。

 

 

事業への集中投資は投資可能額を持続可能な成長率から算出することから始まる

「経験曲線」の存在認知により、市場で勝てる(または勝ちたい)事業に集中投資して、シェアをどこよりも大きく取れば、コスト競争力が付くことが分かりました。では、どれくらいの投資に企業財務力が耐えることができ、どの事業(製品)に投資を集中すればよいのでしょうか。

企業が安全に先行投資できるのは、新規に外部から資金調達しないで済む額の再投資額の枠内です。それが、期初の有利子負債と株主資本の合計額にSGRをかけたものです。しかし、本当に事業の成功確率が高いと確信したら、SGR以上の資金は外部から調達してくればよいだけです。その思い切りのハードルの高さを示してくれているのがSGRの計算式なだけです。

 

 

BCGは、1960年代から次々と新しいフレームワークを提唱し、その多くが同社の成長に貢

献しました。「経験曲線」、成長・シェアマトリックスとも呼ばれる「PPM」、「アドバンテー

ジマトリックス」、「タイムベース競争」です。最近では「アダブティブアドバンテージ」など

があります。

 

 

1970年代から1980年代 マーケティング、競争戦略という概念が注目を集める

1973年・79年の二度のオイルショックで世界的な低成長時代に突入し、大量生産の時代の「プロダクト・アウト」から、マーケットのニーズやマーケットの構造から事業戦略を構築するという方向「マーケット・イン」の考え方への転換の必要性が高まった。一方、限られたパイを奪って、いかに競争に打ち勝って成長するかという競争戦略に注目が集まります。

 

BCGマトリックスは、経営者の属人的な経営センスと補完し合い、相乗効果を発揮することで広く受け入れられた。しかし、時代の変化とともに この考え方にも疑問符が投げかけられるようになった。

 BCGマトリックスによる多角化企業の経営支援が一巡し、戦略コンサルティング会社やビジネススクールを通じて経営戦略策定のノウハウが一般に普及したのち、マイケル・ポーターによる競争戦略の時代が訪れるわけです。

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