霊界

 霊界というのは目に見えぬ雲の上の世界にあるわけではない。たとえて言えば、テレビのチャンネルごとにいろんな映像が映るのと同じように、波長が違い周波数が違うから違う世界を創っているだけで、別なところにあるわけではない。私たちが生きているこの同じ空間のなかに霊界は存在するのです。

 幸福の科学大川隆法総裁は、著書『幸福の科学とは何か』の中で以下のように説かれました。

「霊界と言ってももちろんいろいろありますが、大きな意味で言うならば、この地上世界を去った世界のこと、すなわち、私たちの肉体が死したあと、私たちの魂とも言うべきものが赴くところということになりましょう。ただ、ここでだいじなことは、どうか、目に見えぬ雲の上の世界とか、そういうところに霊界があるように思ってほしくないということなのです。じつは、私たちが生きているこの同じ空間のなかに、霊界もまた存在するのだと知っていただきたいのです。もちろん、霊界についての説明をいろいろ読むと、それが何段階にも分かれていて、上下の差があるように言われています。その意味においては、高級霊界と言われるところが、地上何千メートルとか、何万メートルのところにある感じだと言われておりますが、あくまでもそれは、地上にいる私たちがわかるような範囲で説明し、比喩をすればそのようになるということであって、じつは霊界の霊界たるゆえんは、この物質世界と共存しているというところに意味があるのです。ですから、遥かなるかなたにあるものではなくて、私たちが住んでいる世界に、同時にそうした世界があるというふうに考えていただきたいのです。それはちょうど、私たちのこの世界に、目に見えない電波が飛び交っているのとよく似ています。たとえば、テレビを置いてそのチャンネルを回せば、一チャンネルから十二チャンネルまでいろんな映像が映りますが、これと同じように、その映像相応の電波が空間を、またこの地上を飛び交っているのです。同じように霊界というのも、言ってみればそうした電波や電磁波の波長のようなものであって、波長が違い、周波数が違うから違う世界を創っているだけであって、実際はまったく別なところにあるわけではないのです。つまり、テレビのチャンネルのように、その波長を受信する装置があれば、あるときは地獄界という世界が映り、あるときは霊界となり、あるときは高級霊界という景色が映るということになりましょう。」

 

あの世の世界

 あの世には、天国と地獄という世界がある。

 そこは、この世の生き方と無関係ではなく、死んであの世に還ったときに、この世の生き方があの世ではどう評価されるのかが、有無を言わさず示されてしまう世界。

 自分中心で、他の人から愛を奪って平気で生きていた人は、あの世に帰ったとき、地獄に落ちてしまう。

 逆に、愛を与え合って生きていた人は、天国に帰ってから、互いにニコニコと幸福に生きている。それは、仏の子としての自分が拡大して、それだけ仏に近づいて光が出てくるからである。

 大川隆法総裁は、『心の挑戦』で以下のように説かれました。

「私は地獄という世界にいる人に数多く会って、話を聞いてきました。すべての人が苦しみのなかにあります。闘争と破壊、執着、混乱、惑乱、嫉妬、羨望、戦い。それも悪い戦いであって、自己欲のための戦い、醜い争いです。そうしたものに満ち満ちた世界です。そして、どのような霊もみな、「自分がかわいい」という気持ちでやっているのです。自分がかわいいのに、自分が苦しんでいる。このギャップが埋められないので、ますます不満感が増大する。人のせいにし、環境のせいにする。自分がかわいいがゆえに、自分を苦しめている。こんな、まったく正反対の現象が現実に起きているのです。この地獄霊たちのかわいそうなところは、みんな自分中心だということです。「俺が、俺が」「私が、私が」と言っています。その自分を捨てさえすれば幸福になれるのに、捨てることができないのです。一方、天国に還ってみますと、人々が調和して暮らしています。一人ひとりを見ると、他人に対して非常に親切に生きています。他の人に対して、お互いに親切に生きています。愛を与え合って生きているのです。そして、そのなかの人は幸福です。自分へ取り込もう、取り込もうという「奪う愛」を抑えて、人のために親切に生きようという人が集まると、お互いにニコニコと幸福に生きています。さらに高い菩薩の世界に行ってみると、ほんとうに人のために献身的に生きています。まさしく与えきりであって、与えるいっぽうの方が、そこでは現実に活動をしているのです。ところが普通の人間は、「与えたら損をする。もらったら得をする」と、すぐ思ってしまうのです。その考え方が根本的に間違っているのです。物質の世界では、確かに、何かを与えたらその分だけ減ります。もらった人は、それだけ多くなります。お金でもそうです。しかし、霊界世界は、このまったく逆のことが起きるのです。与えたら与えただけ幸福になる、人のために尽くせば尽くすほど幸福になるのです。それはなぜかというと、仏の子としての自分、仏の分身としての自分が拡大するからです。自分自身がそれだけ仏に近づいて、仏の子として光が出てくるからなのです。この光が出てくることが、幸福感の増大と自己の拡大を、実は意味しているのです。自分自身が仏に近づいていく成長感があるのです。これが幸福なのです。それは、身体が大きくなる幸福ではないのです。仏に近づいていく、光の源に近づいていく幸福なのです。それは、重くなっていくのではなくて、身軽になっていくことであって、身軽な、爽やかな五月の風のような幸福感なのです。そのように身軽になるためには、「自分が、自分が」「自分のもの」という気持ちを捨てなければ、どうしても駄目なのです。」

住む人の「心」に合わせて、いろいろな世界があります

 「実在界」であるあの世からみると、この世は修行場であり、いわばたらいのなかの泥水をかき回しているような世界である。

 ところが、あの世に還り、霊体だけになると、ちょうど泥がしだいに沈殿して上のほうが澄んでくるのと同じように、この世的な執着が強い人は、比重が重いので下のほうに沈んでいき、この世的な執着が軽く精神性の高い人は、上澄みのほうに上がっていく。

 この世において、心がきれいで行動も正しかった人は、あの世では、この世以上に素晴らしい世界に行くことになる。

 総裁は、『奇跡の法』で以下のように説かれました。

「幸福の科学が解明した「あの世観」によれば、私が著書『永遠の法』で説いているとおり、この世でまともだった人は、あの世でもまともな世界に還るのです。この世で立派だった人は、立派な世界へ還ります。この世において、心がきれいで行動も正しかった人は、あの世では、この世以上に素晴らしい世界に行きます。当然のことです。  一方、この世において、外見は飾っていても腹黒かった人は、あの世では、腹黒い心がそのまま現れてきて、地獄界という苦しみの世界へ行きます。この世において、不正やごまかしをした人は、あの世では、それがはっきりと露見し、その心に応じた世界に行くことになります。あの世はガラス張りの世界であり、何一つ隠すことはできません。ちょうど、泥水をビーカーに入れ、かき混ぜてしばらく置いておくと、泥がしだいに沈殿して上のほうが澄んでくるのと同じように、あの世では、〝粒子″の大きさによって住む世界が違っているのです。波動が粗く、この世的な執着が強い人は、比重が重いので下のほうに沈んでいき、この世的な執着が軽く、精神性の高い人は、上澄みのほうに上がっていきます。しかし、この世は、たらいのなかの泥水をかき回しているような世界であり、いろいろな人が入りまじって生活しています。  そのため、この世においては、何が正しくて何が間違っているのかが分かりにくく、間違ったものが言論をリードすることもしばしば起こります。この世には、善と悪のどちらが勝つか分からないようなことがたくさんあり、泥水をかき回しているような世界のなかで人間は磨かれているのです。ところが、あの世に還り、霊体だけになると、そうではなくなります。ビーカーのなかの泥水は、しばらくすると、幾つかの層に分かれていきます。粒子が大きくて重い部分は底のほうに沈殿し、粒子が小さくなるに従って何層にも分かれていき、上のほうには透明な澄んだ水の層ができます。  それと同じように、あの世の世界では、肉体を脱ぎ捨てることによって物質性が薄くなるので、精神性の高さによって何層にも分かれていくのです。これが、幸福の科学で説いている霊界の階層です。この世は三次元世界ですが、あの世は、四次元、五次元、六次元、七次元、八次元、九次元・・・ という階層に分かれています。そして、それぞれの次元のなかに、また幾重もの階層があるのです。泥水の世界であるこの世から、どれだけ澄んだ心を持ってあの世に還るかによって、行く世界が変わってくるわけです。あの世の世界のことを「実在界」といいますが、実在界から見れば、この世は修行場であり、地上の人間は泥の池のなかで共に修行しているのです。」

 

あの世は多次元の世界

 霊界に関する幸福の科学の考え方で、大事なことは、「次元」という概念を明確に打ち出していることです。物理学の世界や数学の世界においては、「この地球を取り巻く環境のなかには、私たちが住んでいる、『縦・横・高さ』によって成り立っている三次元世界以外に、『縦・横・高さ』に『時間』を加えた、『縦・横・高さ・時間』の四本の座標軸から成る、四次元空間というものがある」ということが分かっています。また、これ以上の世界として、五次元、六次元、七次元、八次元、九次元という世界が存在することも分かっています。ただ、そういうものが科学的に理論としては分かっても、「それは、実際には、どのような世界なのか」ということが明確には分かっていないのです。

 大川隆法総裁の霊界研究によって、この物理学の次元構造に該当する世界があることが明らかになってきました。  

四次元幽界  

 四次元といわれる世界は、人間が死後におもむく所、すなわち、「幽界」という世界であり、この幽界世界のなかには、その下部層に「地獄界」という世界があり、その上部層に「狭義の幽界」(精霊界)があります。

 四次元と言っても何処か彼方にあるのではなくて、この世と同じ世界にあるのであって、四次元世界が三次元世界を内包している。これは高次元世界が下位次元世界を内包しているといえる。  四次元は、三次元の縦、横、高さに「時間」の要素を加えた世界です。この四次元世界は、幽界と呼ばれ、死後全ての人が還る世界ではあるのですが、大きく分けて天国と地獄に分かれます。この世界の住人となるには、最低でも「人間が霊的な存在である」、「仏の子である」という悟りをもっている必要があります。また、この世界は、平安時代の住人と現代に生きた人が同一空間に存在できるということが可能な世界なのです。死後は全ての人がこの幽界に還るのです。そして、一定の期間の後、それぞれの精神、心の波長にあった世界へと還っていくのです。もちろん地獄的な人は地獄へと赴いていくことになりますが。  天国は、ガラス張りの世界であって、誰からも分かるため、不調和な心を持っていては、とても同じ世界に留まっていることはできないのです。そのため、天国では嫉妬とか恨みとか怒りの念を抱いた瞬間に地獄に落ちてしまうのです。厳しい世界ではあるのですが、また天国に住む人にとっては安らぎに満ちた世界ではあるのです。

「四次元幽界」というのは、あの世のなかで地上にもっとも近い、いわば天国と地獄の境目の世界のことです。そこでは、死んであの世に還っているというのに、自分が霊であることを認識できないまま生活している人が多いわけです。

 大川隆法総裁は、『永遠の法』で以下のように説かれました。

「「悟り」という言葉にもいろいろな意味があります。低い意味での悟りとは、たとえば、「人間は肉体ではない」ということを知ることです。これだけでも、悟りは悟りなのです。四次元幽界においては、「人間は肉体ではない」ということを明確に悟っている人は、そう多くありません。肉体のような、肉体ではないような、まだはっきりとは分からない生活をしている人が多いのです。  また、地獄界から天上界へ上がるときの悟りもあります。この場合の悟りとは、「人間は自己保存欲のままに生きてはいけない。人間は他人のために生きなければいけない存在である」ということについて、最低限の認識を持つことです。  地獄にいる人たちは自我我欲のままに生きています。自分中心であって、「自分が、自分が」という思いに満ちています。「自分さえよければ、人はどうなってもいい」という思いで生きている人が地獄にいて、「自分のために生きることの、いったいどこが悪いのか」と言っているのです。  ただ、彼らも、自分と同じように、自己保存欲、自我我欲のままに生きている人間たちといっしょに、何十年、何百年と地獄で生きているうちに、それがいやになって、考えを改める時期が来ます。これが、地獄から天国へ上がる場合に必要な最初の悟りです。もっとやすらぎのある平和な世界を希望する時期が来るわけです。」

 「地獄」というのは、この「四次元」のなかのよどんだ領域のことであって、現代社会では亡くなった方の半分以上が、この地獄の方に行ってしまうとも以前から教えていただいています。

 地獄に行ってしまった人は、自分と同じような人びとの見苦しい姿を、いやというほど見せつけられるなかで、「人間は自己保存欲のままに生きてはいけない」と分かったとき、つまり、そういう悟りを開いたときに、天国(まずは四次元のなかの精霊界)に上がっていくことができるのです。

 とするならば、「人間は自己保存欲のままに生きてはいけない」「人間は肉体ではない」という程度の知識さえあれば、最低限ではあっても、あの世に還ったときに惑わずにすむわけです。

五次元善人界  

 さらに、その上には、「善人界」とも言うべき世界があります。これが五次元世界です。ここは、心根の良い人、善人たちが住んでいる世界です。

 縦、横、高さ、時間に「精神(善なる)」なる要素が加えられた世界で、善人界と呼ばれるのは、そこは善人が住む世界だからです。悪人は存在できないのです。あの世は完全な波長同通の法則(この世でもこれは適用されるが)の世界であり、悪なる波動の住人は住むことができないのです。五次元の悟りは「善」です。  幸福の科学では、この次元の数字が高いほど高い精神世界を表わしています。  五次元善人界は普通の町並みが並んでおり、人々が仲良く牧歌的に暮らしている世界です。霊界では食事や睡眠は必要ないのだけれど、生前、農作業を生きがいにしていた人は霊界でも農作業をしているのです。また、この世で仕事を生きがいとしていた職業人などは霊界でも同じように、医者、看護婦、科学者、政治家や科学者などそれぞれの仕事に従事しているようです。

六次元光明界

 この上には「光明界」という世界があります。

 この世界は、縦、横、高さ、時間、精神に「真理知識」の要素が加わります。真理知識とは、仏法真理、幸福の科学で説かれている真理と言っていいでしょう。真理を如何に知っているかが5次元と6次元を分かつのです。  この世界では、政治、経済、科学、教育、芸術、宗教など各界のリーダーたちが住んでいる世界です。  政治や科学、芸術のリーダーたちが一致団し、一緒に仲良く活動している世界なのです。もちろん宗教家もたくさんいます。

 ここには、神に近い人たちが住んでいて、このなかの優れた人たちは、地上の人々から神として祀られることもあります。ここは各界の専門家が集っている世界です。また、諸天善神といわれる人たちが住んでいる世界でもあります。

七次元菩薩界  

 この光明界の上の世界が「菩薩界」といわれている七次元の世界です。

 この世界は、縦、横、高さ、時間、精神、真理知識に利他の要素が加わります。7次元の悟りは「利他」です。利他とは、無私無欲、奉仕の心です。見返りを求める気持ちなどがあると菩薩界へは入ることが許されないのです。

ここは、人助けを中心に生きている人たちの世界です。愛の行為の実践に生きている人たちと言ってもよいでしょう。自分のことについては、もう煩うことが少なく、「多くの人々を救う。多くの人々を導く」ということを中心に生きている人たち、このような愛の塊の人たちが、この七次元の菩薩界にいます。

八次元如来界  

 八次元には、「如来界」という世界があります。

 この世界は、縦、横、高さ、時間、精神、真理知識、利他に加え、「慈悲」の要素が加わります。如来界の悟りは「慈悲」です。世界的宗教の教祖やヘーゲル、プラトン、カントなど偉大な精神的思想を残した方々がいる世界です。

 ここは、言ってみれば、世界的な宗教の教祖や大思想家、大政治家など、その時代の中心人物となって歴史をつくってきたような人たちが住んでいる世界です。

九次元宇宙界  

 そして、人霊が住んでいる最上段階として、九次元に「宇宙界」というものがあります。

 この世界には大如来とも言うべき人たちが住んでいます。これは救世主の世界ともいわれます。すなわち、「根源的な思想を説き、何千年に一回、大きな文明を起こすために地上に出てくるような人たちの住んでいる世界である」と言えます。

 救世主とは、時代時代に現れて、人類を導くために偉大なる「法」を説かれた方です。この世界には10人の方がいます。釈迦、イエス・キリスト、孔子、マヌ、マイトレーヤ、ニュートン、ゼウス、ゾロアスター、モーセ、エンリル、です。そして九次元世界では釈迦意識の本体が、地球最高大霊エル・カンターレなのです。

 九次元存在とは、電磁波であり、エネルギー体であり、意識体である。

 その意識体の一つにおいて、豆電球を一つつけてみると、その豆電球の形と光でもって、人々に認識されることができる。

 光といっても、単純な光ではなく、特色を持った光です。ただ、黄色、白、赤、緑などという色も、地上的に分かるように語っているだけであって、本来はそうしたものすらない。

 総裁は、『永遠の法』で以下のように説かれました。

「九次元の神々というのは、昔の物語で語られているように、宮殿のなかで、大きな肘掛け椅子を用いて座っており、膝の下までたれる白い衣を着て、王冠をかぶっているのかといえば、決してそうではないのです。九次元存在とは、やはり、電磁波であり、エネルギー体であり、意識体なのです。そのようにして活躍しています。そして、その意識体の一つにおいて、豆電球を一つつけてみると、その豆電球の形と光でもって、人々に認識されることができるのです。たとえば、イエスは九次元存在であるといっても、十字架にかかったイエスという、痩せて口髭を生やした髪の長い人物が、九次元で生活をしているわけではありません。イエスの特徴を持った光の塊があるということなのです。そして、必要とあらば、それが地上の人たちを指導したり、八次元以下の霊人たちを指導したりすることになるのです。ただ、八次元の諸如来、七次元の諸菩薩を指導するために、イエスが現れるときには、生前の姿をとって現れてきます。そのほうがイエスであることを彼らに認識させやすいからです。といっても、イエスの姿が見えるのは、八次元、七次元、せいぜい六次元ぐらいの人までです。それ以下の世界になると、イエスがイエスの姿をとって現れたとしても、まぶしくて単なる光の塊のように見え、その姿が見えないというのが実情です。ほんとうの姿は分からないのです。つまり、光の量がそれだけ違うということです。あの世における次元の違いの話をずいぶんしてきましたが、結局、次元が違うと、そこに住んでいる意識体の光の量が違うのです。光といっても、単純な光ではなく、特色を持った光です。たとえば、黄色の光が束となっている。あるいは、白い色の光、赤い色の光、緑色の光が、それぞれ束となっている。これがほんとうの姿です。もっとも、黄色、白、赤、緑などという色も、地上的に分かるように語っているだけであって、本来はそうしたものすらないのです。  地上においても、ほんとうは色というものは存在しないのです。つまり、青い色をしているように見えている物は、結局、太陽光線のなかの青の色を反射しているだけなのです。光を全部吸収すると、黒になります。また、光を全部反射すると、白になります。黄色い光を反射すると、黄色になります。このように、色というものは本来ないのであって、その物質をつくっている粒子が、太陽光線のなかのある色の光を反射すると、その色に見えるということにすぎません。「本来、色はない」ということは、あかりを消してしまえば何の色も放たないということで分かるはずです。もし色が実在するものであるならば、闇のなかでも、その色を発するはずです。しかし、赤であろうが、白であろうが、黄色であろうが、闇のなかでは色がありません。  結局、そうした色は、その波長の光を反射しているにすぎないのです。したがって、光がないときには色もありません。本来、色はなく、ある波長の光を反射すると、その色に見えるというだけなのです。」

十次元惑星意識

 この上に、十次元世界として、大日意識、月意識、地球意識の三体の惑星意識があります。

 惑星の神霊、人格神ではありません。  太陽系には9つほど惑星がありますから、それぞれに宿(やど)っているのではないでしょうか。

 地球意識は生き物を繁茂(はんも)させる地上としての磁場、太陽意識は積極性、月意識は消極性です。  さらに言えば、この地球が内包される宇宙はシャボン玉のような大宇宙を形成していて、この大宇宙がさらに、次なる宇宙を形成しながら「宇宙樹」の世界に行き着くのだろうと思います。次元の壁は愛と悟りの高さによるもので、「愛の発展段階説」と合致しているのです。このように、宗教の世界、信仰の世界においては、すでに最先端の科学を凌駕しているのです。そして、この次元の壁を超えるのは、最後は『信仰』の力なのです。  異次元精神世界を解明するには、唯物論では限界があり、最後は信仰心が必要になってくるのではないでしょうか。

 

根本仏の自己表現

 根本仏は、自己表現の一端として大宇宙をつくり、仏の意識体の一部として大宇宙のなかに住む生命体をつくってきた。

 大川隆法総裁は、『太陽の法』で以下のように説かれました。

「私は、第1章において、宇宙の創造と地球霊団の成立の歴史を語ってきました。その成立過程からもわかるように、いわゆる天地の創造とは、高次元のものが、下次元のものをつくってゆくという歴史だったのです。つまり、超高次元の根本仏の意志により、各次元に、つぎつぎと高級大霊がつくられる。そして、恒星意識、惑星意識が誕生したあと、大宇宙大霊の内部にひとつの異変が起こり、それが、三次元宇宙のもととなる。そこから、やがて三次元空間に星ができ、星団ができ、それぞれの星、あるいは、各太陽系において、九次元以下の人格霊の生活空間ができてきた。そういうことなのです。わが太陽系においても、地球を中心とする霊系団は、まず、九次元宇宙界層ができました。そのあと、八次元如来界(金剛界)ができ、七次元菩薩界(聖天上界)、六次元光明界、五次元善人界、四次元幽界(精霊界および、地獄界)が完成したのです。各次元に対応するこの次元構造は、もちろん、ほかの宇宙空間にもあります。しかし、九次元世界は、各星団の霊界とつながっているけれども、八次元世界以下は、それぞれの星に固有の霊界として発達していることが特徴です。こうしてみると、通常、ひとことで、魂と呼んでいる各人の生命体は、はるか高次元の根本仏が、下位レベルで発現したものであることが明瞭となります。つまり、根本仏とは、あなたがた以外の別のところにある他者ではなく、あなたがたを存在せしめているところのひとつの高次の意識体なのです。ですから、あなたがた自身も、仏の意識体の一部であり、仏の自己表現のあらわれの一部だということができます。  つまり、根本仏は、自己表現の一端として、大宇宙をつくり、大宇宙のなかに住む生命体をつくり出したのです。それは、根本仏の意識の反映です。ですから、根本仏が大宇宙の存続を望まなくなれば、この無限にも思える三次元宇宙空間は、ある日、忽然とその姿を消してしまいます。ましてや、あなたがた人間の生命体も、仏が自己表現の意志を放棄すれば、たちまちにして、あとかたもなく姿を消してしまう、はかない存在なのです。しかし、このはかない存在でもあるあなたがた個人の生命体も、仏の意識体の一部であるという意味においては、非常に高度な存在だといえます。ですから、あなたがたは、自分自身が仏の一部であり、仏の自己表現の一端をになっていることに、誇りと自信をもつべきなのです。これこそが、魂の真実です。」

霊界の空間

 遠くの様子を手にとるように映像で見せてくれるテレビは、霊界と非常によく似ている。

 遠くの人と自由に話せる電話というのも、思いが通じて相手と結びつけば、お互いが非常に近くにいる状態になる霊界と似ている

 総裁は、『繁栄の法』で以下のように説かれました。

「現代においては、科学技術がかなり進歩してきたため、霊界によく似たものが、この世にもずいぶん出現しています。その一つがテレビです。テレビは、地球の裏側の出来事であっても、その映像を一瞬にして画面に映し出し、情報を伝えます。テレビという箱型の機械を家のなかに置いてスイッチを入れると、イギリスの様子であろうとインドの様子であろうと、その映像が画面に映るのです。これは霊界と非常によく似ています。その意味で、この世は霊界にかなり追いついてきた面があると思います。ただ、霊界には、地上と同じ意味での「空間」という概念がありません。なぜなら、霊界には「広がり」はあっても、地上的な尺度としての「距離」がないからです。霊界では、何十キロ、何百キロも離れたところにいるように見えても、非常に親しい関係にあるなど、心の位置が近い者同士の場合には、思いを向けた瞬間、それが相手に通じます。テレビのスイッチを入れると映像が映るように、すぐ相手に通じるため、距離があるようで、ないのと同じなのです。反対に、すぐ近くにいる者同士であっても、お互いの心が離れていると、非常に遠くにいるように感じます。そのため、同一の空間のなかにいても、お互いの存在にまったく気づかないまま通り過ぎてしまうことさえあります。心の向いている方向が違うと、相手が視界に入らないので、そのまま進むとぶつかるほど近くを歩いていても、お互いにまったく気づかないのです。このように、霊界では、空間や距離の認識がこの世とはまったく違っており、あえていえば、テレビや電話などに近いのです。電話は、特定の番号を押せば相手につながり、意識が通じます。また、電話で話をしていると、相手と何百キロ離れていても、相手の守護霊や憑依霊が、一瞬のうちにこちらへ移動してくることさえあります。電話は非常に霊的なものなのです。電話と同様、霊界では、思いが通じて相手と結びつけば、お互いが非常に近くにいるような状態になります。このように、「空間の概念がこの世とはかなり違う」ということが霊界の特徴の一つなのです。」

 

霊界でのものの見え方

 大川隆法総裁は、『宗教の挑戦』で以下のように説かれました。

「不思議なのですが、霊界でのものの見方、感じ方というのは、どうやら一通りではないのです。まったく同じ光景であっても、見る人が違えば、どうやら違うように見えるらしいのです。同じ川の水を見ても、全然違うように見えるのです。たとえば、魚が見ればそれは住処(すみか)に見えます。普通の人であれば、それを普通の川として見ます。ところが、餓鬼地獄の亡者がその川の水を見ますと、それが火の海に見えたり、あるいは血の膿が流れているように見えたりするらしいのです。まったく同じものが、そのように違って見えるのです。なぜ、そのように火の海に見えたり、血の膿に見えたりするのでしょうか。結局、それを見ている人の心に色眼鏡が掛かっているから、あるいは心のレンズが曲がってしまっているから、そのように見えるのです。同じ川であっても、魚はそれを住処と見、普通の人間は普通の川と見、地獄の亡者には、血の膿が流れているように見えるのです。また、その同じ水を天国の人が見ると、とても透き通った水晶のような、きれいな輝きに見えるのです。同じ水が水晶のように輝いて見える、あるいはダイヤモンドの塊のようにも見える。そのように美しく見えることがあるのです。これは、仏教の唯識派の説く考えで、「一水四見(いっすいしけん)」と言います。一つの水に四つの見方があるということです。この一水四見のような見方が本当に現実化してくるのが、あの世の世界なのです。ですから、あの世に還ってどのようなものを見たとしても、心しなければいけないわけです。気をつけないと、自分の心のレンズに合わせた図、映像を見ていますから、本当にそうなのかどうかということを、もう一度、よく確かめてみる必要があると思います。これがあの世におけるものの見方の原理の一つです。」

霊界から地上を観ることができるが、こちらから霊界は見えない

 ところで、四次元以降の霊的世界は、エネルギーの世界、波動の世界ですから、その波動の周波数の性質によって、様々な次元が存在するようになります。すなわち、この世と霊的世界では三次元と四次元という具合に次元の壁によって遮られていると同じように、霊的世界もまた多くの次元の壁によって遮られ、低次元を高次元が包含するようにして、より高い次元がどこまでも続いている。

 三次元この世に住む人間からは四次元のあの世が見えない世界であると感じると同じように、四次元の霊もまた五次元の世界を見えない世界であると感じ、五次元世界の霊もまた六次元の世界を見ることはできません。そして、同じ四次元の中でも、多様性と深さがあり、互いに別の世界を観たり感じたりすることはなかなかできないのです。霊界から地上を観る事は可能ですが、地上から霊界を観ることはできません。ですから、地上の人間は、金魚鉢の中の金魚か、水槽の中の熱帯魚みたいなもので、霊界から観察される立場にあります。劇場の舞台を地上世界に例えることができ、人間は皆ドラマの何かの役を演じているのであり、大勢の観客が見ているということに気がつきません。

七色の光 

霊系団の競争

神々の切磋琢磨によって世界は発展する

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