経営戦略論の誕生 1960年代

チャンドラーが「最初の経営史家」と呼ばれる

チャンドラーは、ハーバード大学経営学の教授で、経営史の研究家として知られる。1962年に発表された「経営戦略と組織」において、「戦略が組織を規定する」という有名な命題を導き出した。 チャンドラーは、アメリカ企業5社の歴史的研究を通じて、アメリカ企業の戦略と組織の関連には段階的な発展の順序があることを発見した。

企業の戦略プロセスを、1.量的拡大、2.地理的拡散、3.垂直統合、4.製品多角化、の4つの段階に分け、プロセスの発展段階としての流れを以下のように明らかにした。

1.量的拡大→管理部門の発生

2.地理的拡散→地域ごとに立地する現業組織の発生

3.垂直統合→開発や生産等の垂直職能を統合化することによる職能性組織の生成

4.製品多角化→事業部制組織の導入

チャンドラーは、上記のような戦略プロセスの違いに応じて組織構造が変わっていくという現象から、「組織は戦略に従う」という有名な命題を導き出した。 チャンドラーの影響を受けて、多くの企業が職能別組織から事業部制組織へと転換していった。 企業が存続・成長していく為には、戦略と組織が適切な関係を持たなければならない。戦略は企業の環境適合の基本的な方法を示すものであり、戦略と組織が整合性を持っている事が、組織の目標達成には不可欠である。

 多角化や新規事業に進出する際の組織は、その戦略にあわせて設計すべきであると提唱しました。それは、本社の企画部門等の機能部門がすべてを決めるのではなく、「事業部制」にすべし、という気運を生み出し、コンサルタント達によって広く導入されていきました。

 

世界で初めて事業部制を執ったのは1920年代のデュポンです。その引き金になったのは、第1次世界大戦中、各国の要請で設備や人員を増やし、戦後、その有効活用に迫られての本格的多角化の実践でした。当時、アメリカ合衆国は、伝統である「モンロー主義」(アメリカ合衆国はヨーロッパ諸国に干渉しないが、同時にアメリカ大陸全域に対するヨーロッパ諸国の干渉にも反対する)を謳い、大戦当初は中立を守り、戦後も国際連盟へは不参加となったという。

日本での好例はキヤノンでしょう。ソノシートという電子機器商品立ち上げに大失敗した後の、エレクトロニクス技術者活用のために、様々な新規事業が立ち上がりました。

デュポンは、本業だった化学繊維レイヨンの開発・生産能力を生かして、まったく市場の異なる防湿セロファンの分野で大成功を収めます。その後、ナイロン、アクリル、ポリエステルと進んでいきます。新しい事業は、事業部として順々に立ち上げればよい と学習したわけです。

事業部制の発明のおかげで、大企業における事業の多角化展開が楽になり、第二次世界大戦以降、大企業はこぞって地理的・製品的な拡大を推し進めました。これも、「組織」⇒「戦略」の例です。

しかし、ここまではアンゾフのいう「関連多角化」。その大企業の事業多角化の熱は冷めず、1960年代のM&Aブームと1970年代に起こった「無関連多角化」の嵐でした。その後、事業多角化は ほぼ無関連多角化を目指すものと同義になっていきます。

1969年当時、GEは46、コングロマリットのリットンは70もの事業部を抱え、本社と事業部門上層部のコミュニケーションは途絶し、全社管理は崩壊寸前になりました。

ここでまた、その組織的要請から戦略が変わります。事業の絞り込み、リストラクチャリング戦略が始まったのです。1970~1980年代、アメリカ企業は企業の解体や再構築の波に洗われました。1981年から2001年までGEのCEOを務めたジャック・ウェルチは就任直後から「世界でシェアが1位か2位でなければ撤退する」と宣言し、事業分野を3分の1以下に絞り込んで、大成功を収めます。

1.「リストラ」「ダウンサイジング」と呼ばれる大規模な整理解雇による資本力の建て直し
2.企業の合併・買収(M&A)と国際化の推進

会社を守り、人材を守らないことから、「建物を壊さずに人間のみを殺す中性子爆弾」の特性になぞらえて「ニュートロンジャック」と綽名されましたが、No.1、No.2戦略は、すぐに方向転換されたことはあまり知られていません。CEO直後、それまで上司だった並み居る事業部長に対してリストラという強権発動をした後、GEはM理論に基づき、新規事業育成も怠りませんでした。

 

アンゾフの言う通り、「戦略」が中期にわたる自社の「あるべき姿(To-Be)」と「現在の姿(As-Is)」のギャップを埋める「方針」なのだとすれば、それは、当然事業(顧客、市場、製品別)にも組織(組織デザイン、権限、プロセス)にも同様に当てはまります。ここで議論されていたのは「戦略と組織」の対立構造や、どっちが先かという依存関係ではなく、「事業戦略と組織戦略」の相互作用だったのです。

 

チャンドラーがケーススタディで見出したのは、「経営者にとって事業戦略(や事業ポートフォリオ戦略)は変えやすく、組織戦略は変えにくい(実行が難しい)から、事業戦略に沿って組織戦略を立案・実行した方が無難である」という安全策なのでした。マッキンゼーをはじめとする経営コンサルティング会社が、これを「事業部制導入」という売れる商品に仕立てたということです。

チャンドラーが見出したのは「戦略と組織」の対立ではなく、「事業戦略と組織戦略」の相互作用でした。そして、「経営者にとって事業戦略(や事業ポートフォリオ戦略)は変えやすく、組織戦略は変えにくい(実行が難しい)ので、事業戦略に沿って組織戦略を立案・実行していくのが無難」ということでした。

そして、「組織は戦略に従う」というキャッチフレーズができたのです。

 

チャンドラーは本当に「組織は戦略に従う」と言ったのか

チャンドラーの『組織は戦略に従う』は1962年に出版され、アンゾフが『企業戦略論』を1965年に上梓しています。同い年の2人は、互いに、「戦略」と「組織」について語りましたが、

チャンドラー:「戦略」「組織」
アンゾフ:「組織」「戦略」

という対立構造で後の世に知られることになりました。しかし、実際は、両人とも、「⇒」ではなく、「⇔」と言っている。チャンドラーは、1989年の新版序文で「⇔」を訴え、アンゾフは、新著『戦略経営論』(1979年)で同じく「⇔」を改めて訴えています。

 

時代背景が同じことから、アンゾフが事業多角化を議論したのと同じ経営環境の変化をチャンドラーも踏まえていました。

チャンドラーの観察したところ、得られた洞察は以下のとおりです。

・集権的職能別組織(本社の機能部門が全てを決める)から、本社と製品別または地域別事業部制組織への転換

・組織の単純な拡大が分権化(事業部制)を推し進めたのではなく、事業の多様化が分権化を促した

・本業と異なるビジネスを管理するのには骨が折れるため、集権的組織から権限移譲が事業部に行われた

それゆえ、「多角化戦略を推し進めるには事業部制に転換すべきだ」というロジックが世に広く受け入れられ、キャッチフレーズ『組織は戦略に従う』が誕生したのです。

 

チャンドラーが本当に言いたかったこととは、「組織と戦略はお互いに大きく影響する」
「戦略は外部環境に従って大きく変わるし、変えやすい」「でも組織はなかなか変わらないから、その妨げになる事が多い」「しかし、逆に組織が変わることで戦略が変わることも多い」ということでした。

 

「戦略」という用語を経営学の文脈で初めて議論したのは、アルフレッド・チャンドラーの『Strategy and Structure』(1962年)だと言われている。

 チャンドラーは、米国の巨大企業における組織的な変遷を分析した。この著作は、企業が環境に対して自社が最適と考える基本的な長期目標を決定し、それに基づいた行動指針を定め、その指針を実現すべく諸資源を割り当て、組織体制を整備していく経緯を詳細に描写している。その成果は多くの実務家に示唆を与えた。職能部門別組織から近代的分権組織としての事業部制組織への移行過程、たとえば、デュポンが直面した需要変動による経営危機と、その対応策としての事業の多角化、そして、その困難を克服するための事業部制のあり方を提示したのは その代表である。ただし、これはあくまで経営史の観点から歴史事実をひも解き、経営環境、戦略、組織の関係を明らかにしたものである。多角化を進めた米国企業の分権化と事業部制導入の歴史に関する細緻な分析が行われてはいるものの、経営戦略を体系的に整理しようとする試みではなかった。

 

 

アンゾフは「市場における競争」の概念を持ち込んだ「経営戦略」の真の父

1960年代、欧米経済は大いに発展し、規制緩和によりM&Aの経験、欧州共同市場(EEC)の創設によりヨーロッパに一大市場ができ、企業の海外売上比率は上がりました。

ロシアからアメリカへの移民。数学と物理学の修士号、応用数学の博士号を持ち、実業界で華々しい実績を上げた後、45歳で学術界に転向した。その当時、相次ぐ規制緩和による企業買収が相次ぎ、欧州経済共同体の成立によりヨーロッパが巨大市場として立ち上がってくるなど、市場がどんどん複雑化していった。そんな中、1915年、企業はどのように戦略を立てるべきかを説いた『企業戦略論』を発刊。営利組織の経営戦略を分析的、かつ、体系的に取り扱った初めての著作です。企業としての意思決定を「3つの階層(ストラテジー、ストラクチャー、システム)で、将来と今のギャップを捉え、事業群全体の方向性を示す」ことだと唱えた。

 

アンゾフこそが「経営戦略の真の父」なのです。以降登場する戦略コンセプトは、ポーターにしても、クリステンセンにしても、『ブルー・オーシャン戦略』にしても、すべての原型はアンゾフにあると言っても過言ではありません。また、「ギャップ分析」「シナジー」といった今でもよく使われるビジネス用語が彼によるものでした。

 

 アゾナフは、新規事業への進出や多角化の際には自社の強みを生かせる業界に進出すべきであるとして、有名なシナジーの概念や成長マトリクスを提唱したことで有名です。はじめて長期的な、市場における競争戦略の概念を提唱しました。それまでの企業では、せいぜい2~3年後の将来を予測した計画を立てていただけでしたが、アンゾフは、戦略の構築や戦略的意思決定の系統的手法を示しました。

 

1960年代半ば、アメリカの大企業では将来に対して、一定の見通しを持つ事が出来る長期経営計画の策定が求められていました。アンゾフの市場製品分析/成長マトリクスは、市場と製品を分類し、それぞれの市場・製品でどのような戦略を立てるべきかを説いたものです。

 

アンゾフが、史上初めて軍事用語である「戦略」を使って、「市場における競争」という概念を経営学に持ち込みました。彼は、企業における意思決定を3種類に分けました。これは、後の世に、「3Sモデル」として一般化することになります。

 

3Sモデル

意思決定の対象を以下の3つに区分します。
 戦略(Strategy)
 組織(Structure)
 システム(System)

このコンセプトは、後の世に、ピーターズとウォーターマンによる「7Sモデル」に昇華されます。

この中でも、①「戦略」が重要でまれにしか変えることができない、トップマネジメントがまさに自身の責務として意思決定すべきものであるとし、経営戦略とは、「現在と未来をつなぐ方針だ」と理解します。これは「ギャップ分析」としても知られております。

ギャップ分析とは、未来の自社の姿(あるべき姿:To-Be)を描き、自社の現状(今の姿:As-Is)を明確にし、その差(ギャップ)が解決すべき課題とするものです。

 

アンゾフが思索した時代は、企業が複数の事業を持つことが多くなった時代でもあった。

さらに、アンゾフは、経営戦略を、「事業戦略」:各事業の方針を決める「企業戦略」:それら全体を管理・統合する の2つに分けました。企業戦略は、企業の多角化方針(成長ベクトル)を「アンゾフ・マトリックス」で定め、事業のポートフォリオ管理をすることです。

彼の時代は、この2層で企業を見ていてそれで十分だったので、彼にとって企業戦略は各事業の全体管理とイコールになります。

「アンゾフ・マトリックス」は、そのままBCGの「成長・シェア マトリクス」(1969年)につながります。

 

多角化の検討ののち、アンゾフは、市場競争における基本コンセプトとして、「競争に勝つにはコアとなる強みが無いといけない」と言い切りました。

 

 

意思決定の側面から展開

 経営戦略の概念や定義づけを行ったのは アンドリュースです。経営戦略とは、企業の目的ないしは目標、および それらを達成するための基本方針や計画をも含めた一つの纏まりである。それは、a.現在会社がどのような事業に従事し、b.どのような事業に従事しようとしているか、c.会社がどのようなものであり、d.どのようなものであろうとするのか を表明したものである。

このような抽象的、一般的な定義に対して、具体的な経営戦略のありようを意思決定の側面から展開したのがアンゾフなのです。アンゾフは、企業戦略を意思決定の側面から捉えます。そして、次のような段階的アブローチをとります。

ステップ1・・企業を多角化すべきか否かの決定   

ステップ2・・広範な業種別リストから大雑把な製品、市場範囲の選択   

ステップ3・・その製品、市場範囲から諸特性や種類を検討し、絞っていく

 

製品、市場の二つの戦略要因とシナジー、並びに自社の能力とを検討することによって、拡大化、多角化の戦略ベクトルを決定することが可能となる。

 

 

戦略的意思決定

アンゾフは、1965年に著した『企業戦略論』において、意思決定の構造をはじめ、企業目標の体系、戦略の選択と用法などについて理論知識の体系化を行った。

アンゾフは、企業経営における意思決定を「戦略的意思決定」「管理的意思決定」および「業務的意思決定」という3つのカテゴリーに区分している。

管理的意思決定とは、自社の経営資源を付加価値に転換するための具体的なプロセスを検討することを意味する。組織が決定した一定の方針に対して、それを実現するための方策に関する意思決定を指す。たとえば、ある企業が製品の価格を20%引き下げるという意思決定をする。そのために、どのように調達先や生産工程を調整するか、どの程度の販売数量を目標として、そのためにどれだけの資源を投入するか を決定することは、管理的意思決定に分類される。

業務的意思決定は、その実際の運用を検討することです。業務的意思決定は、最も実務に近く、日常業務で行われる一つひとつの判断である。たとえば、レストランのウェイターは、どのテーブルに来店客を案内すべきなのか、配膳と会計のどちらを優先するのかといった小さな意思決定を繰り返し行っている。企業が業務を遂行するうえで必要であり、日々繰り返される定例的な意思決定が業務的意思決定に分類される。

戦略的意思決定に関する議論が始まったことをもって、経営戦略は正史の始まりを迎えた。戦略的意思決定とは、不確実性ある環境に対して、自社の経営資源をどのように活用するかを決めることです。企業が外部環境の特性と変化に対して どのように適応するか、という経営戦略の体系に関する意思決定を意味している。たとえば、自動車会社が産業全体の電動化と知能化の潮流をどう見極め、どのような要素技術を採用するのか判断すること、あるいは、鉄鋼メーカーが全世界の合従連衡の潮流をどう見極め、どのような資本政策を立案するのか判断すること。このように、企業の長期的な生存を左右し、かつ、不確定要素が大きな意思決定が戦略的意思決定に分類される。

管理的意思決定や業務的意思決定と比較して、戦略的意思決定は より不確実性を許容している。経営者は、こうした意思決定に際して、いかなるかたちで努力をしても不確定要素を抱えたままに、部分的には無知である状態で望まなければならない。それゆえ、アンゾフは、その不確実性を前提とした体系的、かつ、戦略的な計画が必要だという議論を展開したのです。

 もちろん、アンゾフだけが孤軍奮闘していたわけではない。同時期に活躍したカリフォルニア大学のジョージ・スタイナーをはじめとする戦略計画の伝道師たちは、限られた人間による属人的な戦略的意思決定が困難な巨大組織であっても、一定の明確なプロセスによって それを適切に行えるように数々の指針を示した。「予算ありきから戦略ありきへ」、それは時代が求めた潮流だったのです

 その根本は、第1に、戦略策定プロセスの明確化であり、第2に、自社とそれを取り巻く環境の理解であり、第3に、それを元にした成長のための施策の整理にある。たとえば、経済や産業全体の未来予測を行い、それを基に組織の売上や利益などの目標を設定する。その目標を達成するために戦略的意思決定を行い、優先事項を整理し、経営資源を配分し、それを円滑に実行する。そして、計画の成果を絶えずモニタリングし、その進捗を次の戦略的意思決定に織り込む。

 当時は、こうした戦略策定と実行における一連のプロセスが未整備の組織が大半であった。そのため、戦略的意思決定は経営者や経営チームの属人的な知見や素養のみに大きく依存していたのです。だが、安定成長の時代から不確実性の時代が訪れたことで、予算・動員計画の背後にあるべき戦略的意思決定の重要性が増すこととなる。アンゾフが「経営戦略の父」と呼ばれるのは、それを全面に押し出し、これまでの経営管理の手法に対して正面から挑戦した先駆者だからです。

 

 

戦略的意思決定としての経営戦略

アンゾフは、成功する経営戦略には4つの「戦略的要素」が必要であるとしました。

 

(1)製品と市場分野(自社がどの市場を事業領域とするか)

(2)成長ベクトル(自社の成長のためのアクション)
(3)競争優位(自社の競争優位の源泉をどこに持つか)

(4)シナジー(自社の事業領域間の相乗効果)

 

アンゾフは、既に経営戦略の議論における基本的な要素をカバーしていたことがわかる。

 製品と市場分野は、のちのポジショニングの概念に通じている。

成長ベクトルは、組織が取りうる成長のための施策を概観する。事業環境の分析・理解が重要であるということで、マイケル・ポーターの「競争戦略論」に引き継がれます。現代経営戦略論のその源流は全てアンゾフであることが手に取るように分かります。

競争優位は、リソース・ベースド・ビューや、そこから派生したコア・コンピタンスの議論につながる。

シナジーは、多角化した組織の経営に欠かせない基本要素である。事業間の相乗効果を「シナジー」という言葉で呼んだのもアンゾフが最初です。アンゾフにとって、シナジーは「販売」「生産」「投資」「経営」の4つの企業活動・能力が源泉としていました。

アンゾフの特筆すべき貢献は、成長ベクトルに関する議論であろう。彼は、1957年の時点で、組織が成長するために実行できるアプローチをまとめた論文を発表している。その中で、4つの成長ベクトルが提唱されており、「アンゾフ・マトリックス」と称されている。それは、軍事戦略を原点に予算・動員計画とその忠実な実行を目的とする従来の発想と、経営戦略の立案を発想の原点とする以後の議論の分水領であった。

アンゾフ・マトリックスは、縦軸に「製品ライン」(自社が提供する)「商品特性」を、横軸に「市場」(市場に存在する)「顧客ニーズ」を取り、成長ベクトルを「市場浸透」「製品開発」「市場開拓」「多角化」の4つに切り分けました。

 

以降に登場するほとんどの戦略コンセプトは、アンゾフによって原型が生み出されたものと言っても過言ではありません。

 

アンゾフは、戦略の4要素のうち、成長ベクトルとしての企業成長の方向について、多角化」「現市場浸透」「新市場開拓」「新製品開発」という4つの戦略の選択肢を示している。

また、同じ時期に、ドラッカーは、経営者の意思決定について、経営計画の重要性を強調し、戦略的に意思決定を行う必要性があることを示している。

以上のような多角化に関する戦略論展開の背景には、1960年代のアメリカ大企業が既存ビジネスの成功経験を活かして関連産業に進出し、脱成熟化の方法として事業の多角化経営を行っていたことがある。この時期においては、製品・市場の選択指針としての多角化戦略に関わる研究が産業界のニーズに後押しされる形で行われた。

「多角化戦略の時代」では、戦後のアメリカの大企業のように企業規模の拡大によって多角化経営が行われた。一企業が複数の事業を営むための成長戦略や複数事業に関する資源配分や事業整理のための戦略的管理法が、この時代における戦略研究への要請であろう。この時代には、特に戦略計画の策定および市場と製品の関係分析を重視する傾向があったのです。

 

 アンゾフが体系化した経営戦略は、その後に発展した調査研究の根源を数多く内包している。アンゾフが整理した戦略的意思決定の4つの要素は現代でも示唆に富む。

 

 

戦略的意思決定の不在は大きな経営課題

多くの日本企業において、経営のビジョン、目標、戦略、予算の間に断絶が存在している

日本企業が創発的な戦略の流れに身を置き、中間管理職が戦術レベルでの提案を無数に積み重ね、その成功体験の蓄積が実質的な戦略的意思決定につながってきたという事実も見逃せない。

 そして、それは成功の1つの方程式として長らく機能してきたものの、産業レベルでの大きな変化が到来したとたんに その弱みをさらけ出す。日本企業は、多角化した事業の経営管理が未成熟であり、環境判断を基に戦略的な事業ポートフォリオを組み替える戦略的意思決定に慣れていなかった。その結果、雲行きが完全に怪しくなってから、事業売却に迫られる悲しい事態が現在も数多く生まれているのではないだろうか。

 そうした事業再編と混乱の歴史に直面したのは日本企業だけではなかった。1970年代に至るまでに、米国企業も同様の痛みを経験している。特に、1960年代末までは、多角化によって経営資源を有効活用することが、企業成長を継続する手段として啓蒙された。しかし、経営資源が無作為に分散した結果、経営陣すら把握できないほど事業ポートフォリオの複雑性化することとなる。子会社や事業の数が数百にもおよび、その名前を覚えることすら困難な状況を招くことすらあった。

 多数の事業が併存するなかで、どの事業に追加で投資し、どの事業を縮小すべきなのか。利益率で考えるか、売上高で考えるか、それとも別の指標で考えるべきか。すなわち、多数の事業に多角化した時、その事業間の優先順位をどのように判断すればよいのか。

 これら1960年代の経済成長期には見えていなかった課題が、1970年代初頭より新たな経営課題として浮上した。そして、その課題解決が求められるなか、実務家と研究者に並ぶ次なるプレイヤーとして、コンサルティング会社が台頭することとなります。

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