年金は大丈夫? (2) 社会保険庁 年金制度の歴史

 民間労働者のための最初の公的年金制度の制定は、船員保険法(1939年(昭和14年))である。

 公務員以外の勤め人にも当然老後はやってくるので、一般労働者の定年後の生活保障として昭和17年に始まったのが「労働者年金保険」です。1944年(昭和19年)に女性にも適用対象が広がり、「厚生年金保険」と改められました。

 老齢における保険給付は「養老年金」と呼ばれ、対象は資格期間が20年以上で55歳以上でした。

 年金制度は、1942年(昭和17年)戦費調達のためにスタートしたのだが、決して国民のためではなかった。当初から純粋性が疑われる。制度設計の参考にしたナチス・ドイツは年金保険の金を利用してベルリンから八方に向けて戦時目的の自動車の高速道路、アウトバーンを作った。ヒットラー・ユーゲントなどに金をやってスポーツを奨励する。これは将来の戦力になるわけです。

 ところで、公的年金を世界で初めて実現したのはドイツの宰相ビスマルクです。1889年、高まる共産主義運動への対抗策として導入した。相手勢力を切り崩すため、共産主義の政策を取り込むものだった。

 共産主義を提唱したマルクスは、著書『共産党宣言』で「家族の廃止」を主張していた。子育ても老後も国家が面倒を見るという思想である。

 それまで、家族同士が愛情にもとづいて助け合っていたが、「他人同士の全国民で助け合う」という制度がつくられ、世界に広がった。日本も戦後、「国民皆年金」の制度ができた。当時の厚生省幹部は、「子供が親の扶養の責任を負うことは誤り」として、「家族の廃止」の思想をそのまま実行しようとした。

 「全国民で助け合う」のは素晴らしいユートピアである。しかし、国家が家族の代わりになるのは簡単なことではない。結局は、政府として責任を負い切れず、給付を減らすか、際限なく増税するかという結果に陥っている。

参考

 ところで、当時の日本は、給付体系は報酬比例制で、完全積立方式を採用して、厚生年金の保険料率は男女とも11%(坑内夫は15%)であった。

 この頃の平均寿命は男女とも50歳くらいでした。若年で死亡する者も多く、老後の期間は誰にでも訪れるという時代ではなかった。

 日本の公的年金制度は、当初「積立方式」として始まりました。積立方式というのは、文字通り「保険料を積み立てたお金が、老後に自分に返ってくる」というシステムです。

 ところが、途中で「現役世代の払った保険料を、その時の高齢世代の年金に充てる」という賦課方式に切り替わった。年金制度が「賦課方式」に変わろうとしたのは1954年(昭和29年)からと言われている。

 加入年数の短い坑内夫に定額年金(月額2000円)を導入し、一定水準の年金を支給した。

 保険料率は凍結水準を維持していたが、その後段階的に保険料を引き上げることによって、不足する財源を後世代に転嫁する修正積立方式が採用された。被保険者数も以後の高度経済成長期に飛躍的に増加していった。

 第二次大戦が終了してから、超インフレが高進し、貨幣価値が下落した。積立方式の厚生年金は抜本的な見直しが必要であったが、応急的措置として 1948年に給付水準(月額100円)と保険料(3%)を凍結し、制度を休眠化させた。

 当時は高度経済成長期であり、インフレと人口増によって、積立金の価値が目減りしていくこともあって、賦課方式にすれば現役世代の保険料も安く抑えられ、高齢世代の給付も高いという双方にとってメリットもあった。1950年代は現役世代10人に対し年金受給世代は1人だったので、賦課方式は作動したのです。

 昭和29年までの厚生年金は所得比例一本の年金でした。(共済年金も昭和48年になるまでは所得比例一本であった。)

 それだと所得が高い人が有利で差が出てしまうので、厚生年金は昭和29年改正の時に最低保障の部分として「定額部分」という加入に応じて年金額が変わる年金を導入し、その上に所得比例(報酬比例部分)の年金を乗せる形となりました。定額部分は、当時は60歳以上の生活保護基準(2級地)を参考に定められたものでした。

 厚生年金保険法の全面改正(現実に老齢給付の開始)で、「定額部分+報酬比例部分」という給付設計、修正積立方式を採用、賦課方式への道をつくりました。なお、保険料+税金(国庫負担)+年金積立金で賄われているから、正確には修正賦課方式と呼ばれた。

 昭和30年頃の時の人口は9,000万人ほどでした。65歳以上の高齢化率は5%ほどで約480万人、0歳から14歳までの年少者は約3,000万人。出生率は2.4くらいでした。平均寿命は男63歳、女67歳。全就業者は4,200万人ほど居たのですが、農業等の第一次産業が40%を占めていました。厚生年金や共済年金のような被用者年金に加入していたのは1,300万人程度で、働いている人の半分以上を占める零細企業や自営業の人には何の年金も無かったわけです。そのような中、「何の保障もない人達にも年金を」という気運が高まってきて、昭和34年4月に国民年金法が出来ました。

 昭和36年(1961年)4月、国民年金制度の施行で「国民皆保険・皆年金」が実現しました。税金で全てをやってしまうと給付が低くなりがちで、いろいろと国の制限を受けてしまいますし、高齢化が進行していって国の負担が膨らんでいく事はわかっていたので、保険料を払わずに税金だけで年金支払う無拠出制ではなく拠出制が採用されました。あらかじめ自分の力で備えるというのは当然の事であり、保険というのは自己責任、つまり『自助努力の原則』で成り立っているからです。

 なお、国民年金を作った時点で既に高齢の人や、50歳以上の人で保険料を納めたくても期間が短すぎる人、または、納めるのが不可能な年齢である人には、税金から支払って福祉的な年金として70歳から無拠出制の年金を補完的(不十分な部分を補うという事)に給付されました(老齢福祉年金という)。

 自営業などは所得の正確な捕捉が困難であるため、個人単位の一制の体系が採用され、完全積立方式で制度設計がなされ、保険料および給付水準は低く抑えられておりました。

 この時期の高度経済成長は賃金水準と物価水準を高騰させ、現役世代の賃金との乖離を縮めるために、昭和40年(1965年)の 1万円年金、昭和44年(1969年)の 2万円年金をキャッチフレーズに、給付水準の引き上げと体系の整備を行った。

 昭和30年から昭和50年あたりまでは、現役世代が自分の老齢の親世代だけでなく、配偶者や子供までも自分の収入で支えるという仕組みが成り立っていました。戦後の経済はひたすら成長していって、賃金も物価も上がっていたからです。

 厚生年金保険法の改正で、男性は55歳から段階的に支給開始年齢が引き上げられ、60歳から老齢年金が支給されるようになりました。(昭和45年(1970年) 年金の支給開始年齢が「男性60歳、女性55歳」へ) このころの企業の定年は、55が一般的でした。この当時、平均寿命は 男性で66.03歳、女性で70.79歳 でして、男性が55歳で引退したとしても、平均余命までの期間は、男性が10年程度、女性は15年程度でした。年金をもらう人はそんなに多くない時代だったのです。

 1973年あたりの時期になると、高度経済成長を支えた現役世代が定年年齢(当時は 55歳が一般的)近くにさしかかり、引退後の年金の給付水準の保障が労働者の重大な関心事となり、給付水準の引き上げを提示することが必要であった。

 1973年には 5万円年金・6割年金を標榜して、給付水準を経済指標(男子被保険者の平均標準報酬月額の6割)にリンクして決定する方向性を明確にした。これは、給付水準を現役被保険者の生活水準の一定割合(6割)をもって保障することを意味し、確定給付型年金を制度化・システム化するものであり、そこから生じる財源の不足は後世代の被保険者に転嫁することを意味する。それにもかかわらず、保険料率は 1.2~1.0%(男女)引き上げられたにすぎず、平準保険料率をなお大幅に下回っていた。

高度経済成長期のインフレに対して、給付改善を繰り返した

 オイルショックを機に、昭和50年に財政赤字(国の税収より支出が上回る)になって、出生率もついに2.0を切った(平成17年の1.26を底に 現在は1.44)。とはいえ、その後も賃金も物価も上がっていった(昭和50年からバブル崩壊までを経済の安定成長期という)ので、昭和51年改正で年金を月額9万円に、昭和55年に月額13万円のように上げていった。

 年金支給開始年齢引き上げを昭和55年から実施しようとしました。(昭和30年くらいは平均寿命が男63歳で女67歳だったのが)平均寿命が昭和30年くらいは平均寿命が男63歳で女67歳だったのが、昭和55年では男73歳で女78歳になって長生きする人が増え、また、年金制度ができてから年金受給権を得た人が退職して年金世代に突入する人が急増し始めたからです。平均寿命が50~60歳くらいの時に作った年金制度をそのままにしておくこと自体無理がありました。しかし、日経連や労働組合から猛烈に反対されて、年金支給開始年齢引き上げは実施できなかった。昭和60年改正や平成元年改正でも、年金支給開始年齢引き上げが見送られてしまって、実際に着手された平成13年まで20年間棚上げされてしまった。

 平均寿命は、昭和60年男は74歳女は80歳を超えました。昭和60年改正の時に女子の厚生年金支給開始年齢と共済組合の支給開始年齢が 55歳だったので、ここは60歳に引き上げられました。女子は昭和62年から平成11年にかけて、共済組合は昭和60年から平成7年にかけて引き上げました。

1986年(昭和61年)改正

 昭和61年(1986年)に、国民年金法が改正され、「基礎年金制度」が創設されました。現在の年金制度の骨格ができあがりました。

詳しくは こちら

 国民年金の適用対象を拡大し、1階部分として共通の 基礎年金 を給付し、その費用を賦課方式で全被保険者が共同負担することになった。給付水準も加入年数が伸びても40年加入で満額の水準となるように抑制が図られた。また、厚生年金や共済年金は 2階部分として報酬比例年金を上乗せする制度とし、加入期間が伸びても給付水準は影響を受けないように、定額単価や給付乗率の引き下げがなされた。

 被保険者全員で一律に基礎年金の費用の負担をするから、税金(国庫負担)も基礎年金に投入するようにしました。

 制度が成熟化し、受給者が増えると、財政支出を伴い、将来の負担は重くなるので、財政の安定化と給付水準の抑制が図られました。

 この頃には企業の定年も60歳が一般的となり、定年後は支給される年金と退職金で暮らすというスタイルが一般的になりました。

 しかし、1991年のバブル崩壊を機に、平成の時代は経済停滞期に入り、また、本格的な高齢化と少子化の突入により年金額を抑制する方向に行きました。

バブル崩壊で

 1990年の平均寿命は男性が75.92歳、女性が81.90歳に達しました。1961年の頃と比べると、男性で約11年、女性でも約10年と平均寿命が延びており、その結果、年金支給開始年齢の引き上げの改正が1994年に行われました。

 厚生年金の支給開始年齢の引き上げを受け入れたのは、定年の60歳未満を禁止にして、さらに65歳までの継続雇用などを企業が努力することを法律で決めたからです。
 段階的に引き上げが行われることとなり、2013年から2025年にかけて、60歳から65歳まで引き上げられることになったのです。2025年以降に65歳を迎える方は、現行の制度では年金は65歳からの支給となります。
 女性は遅れて60歳から支給開始となったため、このたび男性より5年遅れで支給開始年齢の引上げが実施されております。

 1997年からは専業主婦世帯数よりも夫婦共働き世帯数が逆転しました。

2000年度改正

 厚生年金の報酬比例年金の給付給付乗率を 5%切り下げ、給付水準の削減を図る。既裁定年金の賃金スライドを取りやめ、物価スライドのみとし、給付費用の抑制を図った。

a0002_011986 ところで、2001年に、確定拠出年金法という公的年金に上乗せされる部分に関して、個人が拠出したお金(掛金)とその運用収益の合計額をもとに年金給付額を決定する制度が制定された。自分で年金を積み立てる方式には、高齢化の影響を受けないことに加えて、年金への不安や不信感が起こりにくいというメリットがある。

 国(政府)は、国民一人一人が公的年金だけに頼らず「自分年金」を積立てていくことを支援する方針へと、シフトし始めました。その皮切りが、2001年からスタートした確定拠出年金(日本版401k)であった。

2004年公的年金制度改革

 第一に、社会経済と調和した持続可能な制度の構築であり、将来の被保険者の負担を過重にしないようにしながら、老後生活を支えるにたる公的年金として適正な給付水準を確保するという、いわば相反する内容を伴いながら、もって制度に対する信頼を確保することである。

 第ニは、多様な生き方、働き方に対応した制度を構築することである。

詳しくはこちら

 今日、平均寿命が男性約81歳、女性87歳まで伸びたのに、年金を受け取り始める年数は、男女共に65歳(移行期間中)で、年金制度開始時とほとんど変わっていません。年金を受け取る年数は、平均して20年ほどになります。

 男性は昭和36年4月2日生まれ以降、女性は昭和41年4月2日生まれ以降の方は、全員65歳からの支給となります。(今の平均寿命が男81歳で女87歳の時代にまだ完全に支給開始年齢が65歳になっていない。)

 しかし、「年金は全世代が得、若い世代も2.3倍もらえる」 「2100年まで積立金は枯渇しない」と数値を偽造した。

 さらに 、「消えた年金記録問題」が発覚し大問題に。

宙に浮いた年金

 そして、 ・・・

社会保険庁は解体し新組織へ移行

 平成22年1月には、社会保険庁を廃止して「日本年金機構」という新しい公法人を設立することとなった。

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